奈良盆地西北部の低湿地。江戸時代は藺草の栽培が盛んで灯心の産地であった。 まず、東安堵村は慶長6年(1601)龍田藩領、寛永15年(1638)幕府領、天和3年(1683)下総国古河藩領、貞享3年(1686)興留藩領、元禄6年(1693)幕府領になり明治を迎える。 元禄15年家数は177軒、人数863人。文政4年(1821)213軒・1,015人。天保14年(1843)222軒、947人。 享保19年(1734)の資料によると農作物は稲・木綿・栗・黍(キビ)などで、木綿栽培は37パーセントにもなっていた。また湿地の裏作に藺草を栽培して効率的な土地利用を図っていたようだ。 この藺草栽培では畳表の製造にはならず、灯心材料として一大生産地となっていた。 天保13年()の資料によると、酒屋・醤油屋・油屋・豆腐こんにゃく屋・大工職・屋根屋・綿打職・桶屋・鍛冶屋・紡類製造・牛馬諸荷物屋・竹細工類・諸売酒屋・荒物屋(タバコ屋含む)・木綿類売り・鍋釜請売り・菓子屋・米屋・肥料屋、魚屋などあらゆる種類の商店があり、在郷町的な性格も持っていたようだ。しかしこれらの商店は殆どは農業との兼業であって、主体は農業であった。 明治15年ころの家数253軒・人数1,286人となっている。 そして西安堵村は慶長6年(1601)龍田藩領、寛永16年(1839)幕府領でそのまま幕末を迎えている。寛政3年(1791)には家数68軒・人数296人とある。 文政2年(1819)の資料によると酒屋・醤油屋・紺屋・大工職・綿打職、桶屋・鍛冶屋・豆腐こんにゃく屋、木綿類売り、絹類売りなどの商工業を兼業していた。 東安堵には代々庄屋職を勤めた旧今村家の安堵町歴史民俗資料館。近代陶芸の巨匠富本憲吉の生家の冨本憲吉記念館。国の重要文化財の中家住宅などああり、全て公開されている。 古い町並が連続して在るわけで無いが、宿場町のような枡形もあり、落ち着いた大和の農村集落という感じである。街道にそった商家の建物は見当たらなかったが、大和に多くある屋根の片側を一段落とした独特の建築様式の家屋が、集落の裕福さを強調しているようであった。 奈良県の歴史散歩上 山川出版社 奈良県歴史学会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1990年 奈良県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
東安堵の町並 |
東安堵の町並 |
東安堵にある陶芸家 富本憲吉の生家 |
東安堵の町並 |
東安堵の町並 |
東安堵にある安堵町歴史民俗資料館 旧今村邸 |
西安堵の民家 茅葺きの部分はスレート瓦になっているが、 立派な大和棟の民家 |
西安堵の町並 |