本卯建の連なる八鹿町は、江戸時代初めは幕府領、元禄11年(1698)旗本八木高補(勘十郎)領となるが、元禄16年(1703)に再び幕府領となりそのまま明治を向かえる。 江戸時代の八鹿村は円山川・八木川の合流点という交通の要衝を占め、延宝・元禄頃(1673〜1704)からは7月8日、12月23日に定期市が立つなど、この地方の物資集散地として、在郷町の性格も備えていた。 享保6年(1721)の村明細帳には「塩茶売りのもの、糸綿商人の者少々御座候」とみえ、宝暦3年(1753)の村明細帳によれば、京都・大坂などに行商に出るものもいたようだ。 安永8年(1779)の村明細帳では家数163・人数772.。医師2・大工9・木挽4・桶屋3・紺屋6がおり、酒屋は2軒であったという。 円山川中・上流域の舟運も八鹿舟・宿南舟などが就航し、享保6年(1721)からは今までの陸送から舟運に代わり、当地の舟着き場まで運んだ。八鹿舟は15石積みや5石積みで、積荷は上りが米・塩、下りが炭・板などであった。湯島(現城崎町)への湯治客などもこの舟を利用したという。 八鹿村には生糸仲買商人が多く、明治3年の鑑札所持者数は生糸商23・蚕種商9と養蚕関連の職業に従事しているものが多かった。 八鹿村の家数は明治元年1,005、明治38年1,926、大正4年3,033、昭和20年4,337と約4倍に増加している。この増加は繭生産量とほぼ比例し、繭・生糸集散地として、商業基地としての地位を固めていったものと思われる。 明治41年には和田山〜八鹿間の山陰本線も開業し、大正3年には郡是製糸工場が進出、県の出先機関も設置されるなど、発展の一途を辿り、商工業・交通・教育・行政の中心地としての基礎を固めた。 今町並みは旧山陰道に沿って、本卯建の揚がった民家が連なる特異な町並みを形成している。本卯建が揚がっているから、重厚な伝統的な商家の建物と思うが、現実は全く異なり平凡な庶民の住宅である。 どうしてこのように本卯建が多くあるのだろう。本卯建の初期の目的の防火でも無い様だし、 岐阜県美濃市や徳島県脇町や貞光町のように、富の象徴でもない。装飾を凝らす目的でも無さそうだし、全くこの町の本卯建については意味が判らないが、本卯建が連続して並んでいた。 兵庫県の歴史散歩上 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1999年 |
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