八木村辺りは戦国時代末期に八木城主八木氏によって八木城の城下町として建設されたようで、当時から町場を形成していた模様である。その後の関ヶ原の戦いでは、城主八木吉治が西軍に参加したため所領没収となり、八木城は廃城となった。 江戸時代、八木は上八木村・中八木村・下八木村・今滝寺村に分かれていた。 上八木村・中八木村・下八木村の集落は連なって町場を形成していた模様である。江戸時代は一部を除き殆ど幕府領であった。(その一部とは下八木村は本組・新組に別れ、本組は元禄6年(1693)までは出石領) 寛政元年(1789)の八木村明細帳によると、上八木村の家数53・人数203。中八木村の家数47・人数208。下八木村(本組・新組合わせて)家数123・人数493。今滝寺村は享保6年(1721)の村明細帳によると家数17・人数67であった。 寛政元年(1789)の八木村明細帳によると、上中下の三ヶ村合計で大工4、医師・紺屋・木挽各2名等の緒職があり、酒株も少し有していたというから、山陰道に沿った農村集落でだったのだろう。 町並みを歩くと、旧山陰道に沿った両側に町並みが展開し、家々の裏の山側に国道9号線が通り、もう片側の家々の裏側には八木川が流れている。そして国道を越えた山側の斜面には寺院が並んでいる。 江戸時代から明治・大正にかけて、豪商と云われるような大店の商人が暮らしていなかったようで、家並みは、農家風の建物であったり、仕舞屋風の家であったりと庶民の暮らしそのものの町並みである。 その町並みの中にも本卯建をあげた家が点在しているし、旧街道に面して主屋が建っているのを見ると、かっては街道を行き交う人々相手の、商売もされていたのであろう。 兵庫県の歴史散歩上 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1999年 |
上八木の町並み |
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上八木の町並み |
中八木の町並み |
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