吉川町は町の中央を県道17号線が通るが、かって大坂道とよばれ、中世頃より北播磨から大坂・京都への幹線道路であった。 京都往還の道として室町期以前からかなり整備されていたと思われ、江戸期には幅5尺と書かれた記述が毘沙門村の文書に見られ、駕籠や馬が頻繁に往来していたものと思われる。 吉川町稲田のこの辺りは、江戸期には播磨国美蓑郡竹原村といい、竹原町とも呼ばれてこの地方の中心地として栄えていた。 関ヶ原の戦い後、慶長5年(1600)姫路藩領、元和3年(1617)からは明石藩領となり幕末に至っている。 中世から江戸期には、当地は近隣の物資の集散地であり、宿場町としても機能していたようで、この地の政治・経済の中心地であった。 明治5年竹原村と美嚢川を隔てた宮脇村が合併して稲田村となる。明治11年の戸数53軒・人口231人となっている。 灘五郷の酒米で有名な山田錦は近世期の当地域で作られたとの説がある。正徳2年(1712) 吉川谷内24ヶ村を加増された下野壬生藩主鳥居忠英は領内の稲作を改良し「鳥居米」の名で出荷、これが酒米に使用されたと伝える。 今、古い町並は東西に延びる旧県道17号線(旧大坂道)に沿って両側に展開していた。切り妻造り平入りの商家の建物で格子や出格子を備えた家もあるが、伝統的な家屋でありながら無住になり、朽ちていく民家が多数見られたのは悲しきことである。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名U 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1999年 |
稲田の町並 |
稲田の民家 |
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