林田川沿いの南北道と山崎断層に沿って東西に播磨内陸を横断する東西道が交差する交通の要衝。江戸時代には陣屋も置かれていた。 安志村は天正8年(1580)神子田半左衛門領、天正12年(1584)黒田孝高領、天正15年(1587)木下勝俊領の後、慶長5年(1600)姫路藩領、慶長18年(1613)備前国岡山藩領、元和元年(1615)山崎藩領、延宝7年(1679)幕府領、享保元年(1716)からは安志藩領。安志藩は江戸中期に成立した譜代小藩で陣屋は当地に置かれた。初代藩主は豊前国から転封となった小笠原長興で以後七代目貞孚で明治を迎えた。陣屋跡は現在安富中学校となり、武家屋敷跡は市街地と中国自動車道となった。そして藩主邸は安志小学校となっている。 寛文年間(1661〜73)の下村氏手控によれば家数92・人数558。安政4年(1857)の家数163。明治24年の戸数242・人数1,061。 現在、陣屋町当時の遺構は殆ど見当たらないが、町並はかっての繁栄を裏付ける、重厚な入り母屋造りの建物が点在していた。 兵庫県の歴史散歩下 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名T 平凡社 平凡社地方資料センター 1999年 |
安志の町並 |
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