八尾は大阪平野東部の生駒山系西部に位置する。 中世には久宝寺寺内町が形成され、在郷町として町場を作っていて、住民は商業に従事する者が多くこの地域の物資の集散地として発展していた。当時から交通の要衝で、後に八尾街道と呼ばれる道も通っていた。 慶長11年(1606)久宝寺御坊の安井氏と対立した森本七郎兵衛行誓らは、八尾の長瀬川右岸、八尾村の西側の荒地を開発して、八尾御坊大信寺と慈願寺を中心に八尾寺内町を造成した。この八尾寺内町は商品流通の発達とともに河内農村地帯の在郷町として発展し、多くの商家が軒を並べ、久宝寺寺内町をも凌ぐ発展を見せた。 近代八尾の中核は八尾村と八尾寺内町から発展したもので、八尾村は寛永5年(1628)から8ヶ村に分割され、西郷村・東郷村・木戸村・庄之内村・成法寺村・今井村・別宮村・八尾座村が誕生した。 宝永元年(1704)の大和川付け替えで、八尾辺りの洪水がなくなり、旧川筋には多くの新田ができ、綿が作られ綿作がこの地域の近世最大の産業となった。 今回訪ねたのは近鉄八尾駅南側の東本町二丁目・三丁目辺りである。江戸時代には東郷村・木戸村・庄之内村と云われた辺りで、多くの商家が軒を並べていて、八尾街道が通り信貴道が分岐していて、八尾の中心的な地域で江戸時代を通じて幕府領であった。 古い町並みは旧八尾街道や信貴道に沿って展開していて、伝統的な形式の商家建物が点在している。茅葺きの木綿問屋の家屋も残っていて、大阪市の衛星都市の八尾駅前のこんな場所によくも残っているものと感心しきり。 伝統的な様式の建物は、平屋もしくは中2階建て切妻造りで虫籠窓が備わり、千本格子や格子戸を残した家も多かった。 大阪府の地名U 平凡社 平凡社地方資料センター 1986年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58 |