久宝寺寺内町の歴史は、450年以上前、戦国時代にまでさかのぼる。本願寺宗主の蓮如上人(1415〜1499)がここへ布教にきたのは、文明2年(1470)のことであり、多くの帰依者を得たので、文明11年(1479)この地に西証寺を建立した。後に西証寺は久宝寺御坊顕証寺と寺号を改められた。そしてこの寺を中心に久宝寺寺内町が形成されて、門徒衆徒の寺内町として栄え、証如上人(1516〜1554)の時代には久宝寺寺内町として特権を得ていた。 寺内町は周囲を二重の堀と土居で囲み、町の入口には6ケ所の木戸門を設け、各入口を入った所はT字路とした。街路は東西に7本、南北に6本の道路が碁盤目のように縦横整然と走っていて、城構えのような厳重な防備をした。 顕証寺(久宝寺御坊)の北側の道を中之町通りといい、北へ表町通り、馬追町通り、米屋町通り、大手町通りがある。このような町割りは、現在でもほぼ当時のまま残っており、貴重な歴史的遺産である。その他に地蔵尊を置いていた。今口地蔵尊・札の辻地蔵尊・東口地蔵尊・南口地蔵尊・古口地蔵尊・北口地蔵尊が置かれていた。 しかし、慶長年間(1596〜1614)に本願寺の東西分派に端を発して、慶長11年(1606)、久宝寺の森本七郎兵衛行誓ら一部の住人は、久宝寺御坊の下代安井氏に対立して村を出て、八尾の長瀬川沿いの荒地を開発し、八尾御坊大信寺と慈願寺(慶長13年1608に八尾に移る)を中心に八尾寺内町を形成した。 慶長19年(1614)から元和元年(1615)にかけて大坂冬の陣・夏の陣が起きたが、冬の陣でこの地域の在家は焼き払われ焼け野原になった。次いで夏の陣では河内が主戦場となり、若江・八尾・久宝寺を中心に衝突、多くの戦死者を出した。 久宝寺の東側を流れる長瀬川は旧大和川の本流で、宝永元年(1704)の大和川付替え以前は川幅約200mにも及び、川船が往来し、久宝寺は船運の要所として、また、堺から八尾街道を経て京都に至る主要幹線の中継地として栄えた。しかし大和川の付替え後は、地域の中心は八尾寺内町に移り、寺内町としての特権がだんだん薄くなったため人口が減少し、久宝寺は農村部における商業の中心地(在郷町)として発展した。 江戸期の産物として、久宝寺木綿が有名であった。大和川付替え後は、その川筋で新田開発が行われ、長瀬川・玉串川流域では綿作が盛んに行われた。 文政10年(1827)の商家には、米屋・質屋・木綿屋・古道具屋・醤油屋・提灯屋・繰綿屋・大工・鍛冶屋・酒造家などの多種類の業種があり、慶応3年(1867)には商人・職人の家数167軒であり、その内実綿繰綿商は20軒を越えていた。 町並みは江戸時代から明治時代の町家が多く残り、町家の一般的な建て方は、平入りの中二階建て、白漆喰塗り込めの虫籠窓で袖壁が多くの家屋の備わっていた。かっては本瓦葺きだったであろうが、土蔵以外は殆どが桟瓦葺きに変わっていた。 大阪府の歴史散歩下 山川出版社 大阪府歴史散歩編集委員会 1990年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
久宝寺5丁目の町並み |
左側は久宝寺6丁目 右側は久宝寺5丁目 |
久宝寺3丁目の町並み |
久宝寺5丁目の町並み |
久宝寺6丁目の町並み |
久宝寺3丁目の町並み |