山崎の地は山陽、山陰を結ぶ因幡街道と、東西に走る街道の交差点で交通の要衝であり、江戸時代、山崎藩の城下町・陣屋町であった。 天正15年(1587)に龍野城主木下勝俊の支配に属し、慶長5年(1600)には姫路城主池田輝政の支配下となった。そして元和元年(1615)池田輝澄が宍粟郡3万8千石の領主となり、山崎に居城して城下町を建設し、この時に10ヶ町が成立した。以後寛永17年(1640)には松平康映が5万石で、慶安2年(1649)には3万石で池田恒元(3代)が領主となっている。延宝7年(1679)には1万石で本多忠英が領主となり9代忠明で明治を迎えた。 町役場の南一帯(小学校・中学校)が山崎城(陣屋)跡である。戦国時代末に播磨に侵入した尼子氏が山崎の鹿沢に砦を築いたという。しかし本格的な築城は池田輝澄の時で、3万8千石であって、その後加領され6万3千石になり、大規模な築城であったが、城は完成することなく陣屋となり、領主が変るたびに小藩となり、規模も縮小され、町場が拡大した。 松平康映が5万石で入部したときに、町の東・西・北に木戸を設け、町場と藩邸・武家屋敷との間の土橋口・大手口・熊鷹口に門番を置いた。 宝暦10年(1760)には造り酒屋7・油屋3・米屋20・魚屋2・紺屋9・鍛冶屋9・大工17など各種の職業の商人や職人が居た。 町並は間口が狭く奥行きの広い町家で埋まり、道は城下町特有で屈曲が多くしばしば災害が起こった。中でも火災が多く、宝永元年(1704)には6ヶ町が焼失、享保4年(1719)には172軒が焼失している。 明治14年の戸数500・人口2,047となっている。 古い町並は旧因幡街道と東西に走る街道筋に展開する。因幡街道は国道29号線となり旧街道の東側をバイパスとして通り、また東西の街道も旧街道の南側に県道として通りそれぞれ町並は保存された状態になっている。しかし旧因幡街道は商店街に開発されずに残ったが、東西の街道は商店街になってしまい、古い町並として殆ど残っておらないがもう一本北側の東西の通りには比較的古い町並が残っていた。切り妻造り平入り、中2階建て漆喰塗り込めの商家の建物が伝統的な様式の家屋の標準のようだ。 兵庫県の歴史散歩下 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名U 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1999年 |
山崎町山崎の町並 |
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