養父市大屋町中間は兵庫県中央西部、円山川支流の大屋川が集落内を北に流れる。 江戸はじめは出石藩領、慶長18年(1613)岸和田藩領、元和5年(1619)再び出石藩領、一時収公されたこともあるが出石藩領が続き、天保7年(1836)幕府領となり幕末に至る。 村高は出石封内明細帳によると102石余、家数35・人数219、鉄砲5。「天保郷帳」197石余。特産物は繭・製炭・木材。明治14年の家数84・人数421。 江戸時代末期の開港・貿易の開始によって、生糸が日本の主な輸出品となり、但馬地方でも明治期以降養蚕が盛んになり発展していった。 今回訪ねたこの中間にも多くの養蚕農家の3階建て、2階建て建物が残っている。 住居と生産の場が一緒になった養蚕農家の建物が多く残る中間集落も、但馬地方大屋の養蚕農家の一角を占めている。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名T 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1999年 |
大屋町中間の町並 |
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