和田山町の町並
和田山・寺谷
地図


和田山町和田山の町並
 和田山は古くから、丹波国遠坂から和田山をへて八鹿・村岡を通り鳥取に抜ける山陰道と、和田山から竹田と通り播磨姫路に至る播但道の分岐点として発展した町である。
室町期には守護大名山名氏の支配下にあり、竹田城に山名氏の武将太田垣光景が配置されていたが、天正5年(1577)羽柴秀吉の但馬攻めで落城した。その後天正13年(1585)には赤松広英が竹田城に封ぜられたが、関ヶ原の戦いで西軍に属したため切腹させられている。
和田山は江戸時代には幕府領として推移した模様である。「丹州湯嶋道中独案内」には「湯嶋より帰りニ、播磨廻り望人ハ此和田山迄出て、生野越ニ行くべし」と記されている。
享和2年(1802)に当地を通った際の記録菱屋平七長崎紀行に「和田山の駅」とあり「上組・下組とわけたるを、合わせて五丁計リの町つづきなり、茶屋・宿屋あり、宿屋ハ甚よきあり」とある。文化2年(1805)の村明細帳では家数119軒、人数585人。
この地方では、養蚕業がさかんであり、慶応2年頃には和田村の浅右衛門・政左衛門・十太夫組の生糸出来高は411貫余もあり、この頃に生糸改方の改所として和田山村が指定されている。
宝暦3年(1753)江戸の商人磯野屋亀松らが官許を得て毎年9月から翌年2月までの間、竹田〜豊岡間に高瀬舟を運航させたので、当地域の流通経済は大きく発展した。
町並の成り立ちの過程がはっきりと判らないが、町は今の和田山町域の竹田ほど大きくはないが、街道筋の町として発展して行ったと思われる。
古い町並は旧山陰道筋と播但道筋・元伊勢神宮へ向かう道筋に展開していた。村岡町・八鹿町など但馬地方には平入り本卯建の民家が多く見られるが、ここ和田山も例外でなく、旧街道筋には平入り本卯建の民家が連続して並び、卯建と卯建が隣り合った民家も見られる。
この地の本卯建は装飾的なものは無く、殆どステータスシンボルとしての卯建の要素が多いと思われ、中には一軒屋であるのに、切り妻造りの主屋の両側に本卯建がこれ見よがしに上がり、周囲を威圧しているようであった。 
町並み指数 40
参考文献 
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年
  兵庫県の地名T  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1999年

和田山町和田山の民家

和田山町和田山の町並

和田山町和田山の町並

和田山町和田山の町並

和田山町和田山の町並

和田山町和田山の町並
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