山陰道の和田山から姫路への道、播但道に沿って竹田はある。 町並みの西側に標高353mの古城山山頂に、わが国の中世山城を代表する竹田城(虎臥城)がある。 嘉吉3年(1443)山名持豊は、山陰道と山陽道を結ぶこの街道を押さえる為に築いた城で、12年を費やして完成させ、武将太田垣光景を配置した。天正5年(1577)織田信長の配下、羽柴秀吉の但馬出兵で落城した。その後、赤松広英が竹田城主となり城を改修している。 広英は関が原の戦いで、最初は西軍で丹後田辺城を攻め、後に東軍に属し鳥取城攻略に参加したが、攻略の不手際から自刃を命じられ、彼の死とともに竹田城も廃城となった。 江戸期の竹田は幕府領に始終した。慶長初年(1596頃)には戸数1200、駅馬200匹もいたというが、慶長15年(1610)の火災で全町焦土となった。宝暦12年(1762)にも130戸を焼失。安永元年(1772)不作で80戸・315人減、天明8年(1788)不作で100戸・300人減、天保7年(1836)飢饉で80戸・380人減になっている。 町は城がなくなって衰退したというが、竹田椀の産地として知られ、その職人は寛政年間(1789〜1800)には漆塗業者も含めて150戸を数えたという。明治10年の大火で250戸を焼失し、明治15年の戸数は493戸・人数2348人であった。 生野と京都を結ぶ街道筋でもあり、享保3年(1718)の生野銀山吹銀京都銀座渡道中馬継書上には竹田町と記載され、四里の生野、五里の佐治(現青垣町)に継ぎ立てていた。 享和2年(1802)に当地を通った際の記録 菱屋平七長崎紀行に「竹田宿」とあり、「瓦葺・板葺打雑りて、町屋十丁あまり立つづけり、此所より白糸を多く出し、又白絹をおほく織出す、又竹田椀とて下品の椀を造り出せり、宿屋・茶屋あり、宿屋は甚きたなくよからず、西の方の山の上に赤松左兵衛広秀の城跡あり、櫓天主の基・石垣など高く見ゆ」とある。 絹織物が盛んであったのは宝暦13年(1763)の「但州湯嶋道中独案内」にも「絹多く。織出す、‥‥」とあることからも知れる。 竹田は九ッの小字に分かれていて、新町・上町・中町・観音町・旭町・米屋町・東町・下町・殿町であった。 赤松時代の城下町は竹田城の東麓に形成され、現在の宝樹寺の上の平坦地が赤松居館と云われている。当時の武家屋敷は殿町を含む城山の下であると思われ、町屋は米屋町・観音町・中町・上町・新町などであった。 大正年間までは、旅館・料理屋・茶屋・菓子屋・魚屋・雑貨屋のどの商店が軒を並べ、漆器、家具を業とする店も多くあったが、今では町特産の竹田家具の店と仏壇屋以外の店は殆ど無くなってしまった。 今町並みを歩くと伝統的な商家の建物が多く残っている。この町並みの特徴に本卯建が上げられる。卯建の数もそう多くないが立派な本卯建が各所に残っている町並みは珍しいものである。伝統的な家屋は切り妻造り、中2階建て平入り、虫籠窓で一階は格子窓であったでしょうが今はガラスサッシュになっている。 国道がバイパスとして古い街道筋を外れて円山川の東側を通ったので、町並みはチルド保存されたのであるが、この町にこれだけ伝統的な家屋が残っているにもかかわらず、町並み保存については全く関心が無いようで、今に手を打たねば少しの間になくなってしまう運命のようだ。 兵庫県の歴史散歩下 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名 平凡社 下中直人 1999 |
本卯建の瓦が落ちるからとトタンに変わっていた |
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卯建の上がった造り酒屋 |