豊岡市の中央に小高い丘があり、これが豊岡城跡である。天正8年(1580)羽柴秀吉が但馬平定に功績のあった宮部善祥房継潤に豊岡の地を与えた。小田井に入った継潤は築城に着手し、以来城主は木下助兵衛尉・尾藤久右衛門知定・明石左近則実・福原右馬助直高と代り、慶長2年(1597)に杉原伯耆守長房が入り、慶長5年(1600)頃には城と共に城下町も完成したと思われる。城はその後、元和元年(1615)の一国一城令により取り壊され、陣屋に代った。 杉原氏は3代で断絶し、承応2年(1653)豊岡は幕府領となり代官が置かれた。寛文8年(1668)丹後国田辺城主京極高盛が入封、一時断絶した時期もあったが、京極氏のまま明治を迎えている。 小田井にはいった宮部善祥房継潤は城の北と南の山麓に武家屋敷を配置し、北東の内側に居館を設け、円山川と弁天池や和久田池を連結して内堀とし、町家はその外側の円山川沿いに置いて円山川が外堀の役割をした。 小田井に南接する宵田町・中町・下町・寺町・小尾崎町の5町には地子が免除され、これらの町が中心となって城下町が発展していった。承応3年(1654)にはこの5町で家数合計312軒になっていた。元禄15年(1702)の豊岡城下図によると五町及び小田井町・新町・京口町の他に久保町・竹屋町が成立していて10町で構成されていた。 文政2年(1819)以降は新屋敷村と永井村を加え、豊岡町は10町2ヶ村で構成された。宝暦10年(1760)の家数738・人数3,344であり、天明5年(1785)の豊岡10町の家数748・人数3,182であった。 産業として杞柳産業があった。円山川流域の低湿地に栽培される杞柳を原料として、江戸期には柳行李の製造が盛んであった。豊岡藩はこれを専売制として保護奨励し幕末期には25軒の問屋があった。明治以降も柳製品の生産は益々盛んとなり、大正時代には最盛期を迎え、その繁栄は第2次世界大戦まで続いたが、その後は振るわず、柳産業が鞄製造に変って行った。 城の北側の町人町には古い町並が残っていると思って訪ねたが、開発発展が著しく商店街のアーケードに隠れていたりして古い町並は殆ど残っていなかったが、城の南側は商店街として発展が少なかったため、所々に古い町並が残っていた。 伝統的な家屋は点在する程度だが、切り妻造り中2階建て、虫籠窓や千本格子、バッタリ、袖壁、大戸を備えた商家の建物が連なる地域もあり、城下町・陣屋町の面影を残していた。 兵庫県の歴史散歩上 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 兵庫県の地名T 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1999年 |
豊岡市城南町の町並 |
豊岡市城南町の町並 |
豊岡市城南町の町並 |
豊岡市中央町の町並 |
豊岡市元町の町並 |
豊岡市城南町の町並 |