豊岡市津居山は兵庫県北東端、円山川河口西岸に位置し、細い水路で瀬戸と分離されている。 江戸期初めは豊岡藩領、承応3年(1654)幕府領、寛文8年(1668)豊岡藩領、享保12年(1727)から幕府領で明治を迎える。村高は「但馬国知高帳」では津山村16石余、「国高一紙」10石余、「天保郷帳」12石余。天明8年(1788)の家数129・人数656。享和2年(1802)の記録では「御高も少く古来より重に海猟稼ばかりにて渡世」と見える。慶応3年(1867)の家数182・人数898。明治7年の家数200・人数944。同年地誌調査報告書では 男子は商業・漁業・廻船業に従事とあり、海船138のうち211〜296石積3、2〜20石積135とある。 江戸中期〜明治初期は円山川舟運が盛んで、高瀬舟が就航し、津居山湊には番所が置かれていた。また、北前船西廻り航路にあって繁栄し、瀬戸を中心に廻船業が発達した。明治中期の「兵庫地誌要略」に「北海航行の船舶みなこの港に集雲して需要を足し、或いは風波を避けて停泊す。蓋し国中第一の良港たり」とある。 明治37年に国鉄山陰線 、続く播但線開通により、港勢は一変し、以降、漁港として、また沿岸漁船の避難港としての性格を強め、以降漁港・避難港兼商港として機能している。 海岸に沿って漁村集落の町並みが展開しているが、密集型の漁村集落でなくて、区画整理されたような町並である。火災による復興事業と海岸の埋め立てによって整備されたものであろうと思う。 町並みを構成する家屋も、江戸期にまで遡るものは無いように見える。軒を連ねた端正な家屋が見事に並ぶ町並が展開している。店舗だったであろう家屋も見られ、往時の賑わいを彷彿とさせるが、今は静かさを保った、そこそこ活気ある漁村集落と思われる。 集落の東・南側は津居山漁港で、かにの水揚げで有名であり、その時には活気で溢れるそうである。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名辞典編纂委員会 昭和63 兵庫県の地名T 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1999年 |
津居山の町並 |
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