富田林市の町並み 
富田林町
地図


富田林町の町並
現在の富田林の中心部の富田林寺内町は、富田芝という周辺の低地から一段高くなった荒れた台地であった。
奈良県橿原市今井町と同じ、一向宗の寺院を中心とすることで生まれた寺内町である。
富田林寺内町は永録元年(1558)に、京都興正寺の第14代証秀上人が荒れた台地の富田芝を、永楽銭百貫文で買い受け、近くにあった古御坊をこの地に移して再営し、興正寺別院とした。
近隣4ヶ村の名主(後の庄屋級)8人に協力してもらって、開発を行い寺内町をつくって希望者を移住させ、富田林と名付けたのが始まりだ。そしてこの富田林御坊の一向宗興正寺別院を中心に発展した宗教自治都市である。
御堂を中心に7筋8町の町割りが成立した。南北の通りを「筋」といい、東西の通りを「町」といった。町の周囲に土塁を巡らし、その外側に竹を植え四ヶ所に門を設けて朝夕に開閉して厳重に取り締まった。4ヶ村の名主「8人衆」が町年寄として町政を担当した。
戦国時代には戦乱の中にさらされたが、その中でも全く無防衛で平和政策をとり、商業都市として近世の繁栄の基を築いた。
支配関係は複雑でこの辺りの村々は殆ど別々の領主だった。その上に度々領主が代わっている。この富田林村でも、元和元年(1615)幕府領からはじまり、寛政3年(1791)に幕府領になるまでに8回領主が代わっている。
そうした中で、寺内町の性格は次第に失われ、周辺地域の農業の発展に伴って、農村部における「在郷町」として発展していく。その主たるものは、酒造、木綿問屋、油屋、呉服屋、材木屋などの商家が栄えた。
中でも綿作は綿作五倍といわれるように米より五倍も稼げるということで、水田が潰され綿畑が急増した。この傾向は河内平野で特に著しく、ここに河内木綿と銘した名品が作られるようになった。富田林が豊かな町となったのは、河内木綿によるといっても過言でない。
寺内町は東西南北とも約350m、約12ヘクタールの広がりをもち、創建当時の町割が殆どそのまま残っていて、在郷町として栄えていた頃の商家の主屋や土蔵が今も残り、町並みの景観形成に大きく寄与している。
町中の道路は殆ど直交せず、1m程づつずらして、見通せぬよう工夫されていて「あてまげ」と呼んでいる。
公開されている旧杉山家住宅(国の重要文化財)は、寺内町の創建にかかわった8人衆の中の代表格の旧家である。元和元年(1615)から代々酒造業を営み明治半ばまで続いた。現存する建物は慶安年間(1648〜1651)ころの建築で、寺内町地区最古の町家建築である。
主屋は入り母屋造り、本瓦葺四層屋根、中二階建て、白漆喰塗り込めの虫籠窓、平入り、格子、出格子、煙出し、駒寄せで、広い土間、太い重厚な柱、梁など豪壮なものである。
現存する多くの商家は、いずれも17世紀中頃から幕末・明治期にかけての建築であるが、本瓦葺の屋根、骨太の荒格子、白漆喰塗り込めの虫籠窓などの重厚な建造物を核として見事な町並みが形成されていた。
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参考文献
  大阪府の歴史散歩下  山川出版社  大阪府の歴史散歩編集委員会  1990年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年 
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会


富田林町の旧杉山家

富田林町の町並

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