龍野市は兵庫県の西南部に位置し、市域のほぼ中央を揖保川が流れている。 龍野は明応8年(1499)頃に町の北にそびえる鶏籠山頂に山城、朝霞城(城山城)を築いた赤松氏によって町造りが始められました。天正5年(1577)豊臣秀吉に城を開け渡し、石川光元・蜂須賀正勝・福島正など秀吉家臣が城主となった。 関ヶ原の戦い後、姫路城主となった池田輝政の所領となり城代を置いた。慶長元年(1596)石川光元が城主のとき、それまで山頂にあった城をふもとに移して平山城とした、という説と、元和3年(1617)姫路城主本多忠政の次男政朝の入城後と云う説があるが、いずれにしても、これが現在の龍野城跡である。 その後、龍野城主は本多政朝から小笠原長次、岡部宣勝、京極高知と代わり、寛文12年(1672)に信州飯田から脇坂安政が五万三千石で入府し、以来脇坂藩は10代200年間続き明治にいたった。 龍野城下は近世初頭には立町・下町・横町・上川原・下川原の5ヶ町が成立していて、これら5町の発展と共に枝町も形成され、大部分は脇坂氏の入封時にすでに見られが、脇坂氏の入封後現在見られるような城下町が完成した。 城下町は北の鶏籠山、南西の白鷺山などの山並みを背負い、東の揖保川に向かって扇状に開けており、お城の正面より南北に伸びる大手筋を境にして、西側に武家屋敷、東側に町人町があった。 龍野の町割りが江戸時代そのままに今も残っていて、城下町特有のT字路が各所にあり敵の進入に備えたのがよくわかる。龍野城は明治維新の時に惜しくも取り壊されてしまった。下川原商店街には、古い商家や民家など200年以上も続いた老舗が並んでいる。妻入り三階建ての小林家土蔵(市文化財)があり、17世紀中期の建築で土蔵としては日本最古のものである。商店街の北の端の商家(現在は医院)の木造四階建ての望楼のある建物がある。ただこれらの伝統的な建造物も今は商店街になっているため、アーケイドや看板などで隠れてしまっているのは残念である。 下川原商店街の北の端の近くで、伝統的な古い町並みが連なる中に「うすくち龍野醤油資料館」がある。天正15年(1587)円尾屋孫右衛門によって始められた龍野醤油の醸造用具や文献資料を展示している。 龍野における醤油生産は天正年間(1573〜92)に始まったと言われ、うすくち醤油についても寛文年間(1661〜73)に開始されたと言われている。しかし龍野の代表的特産物である醤油の商品生産としては元禄2年(1689)の円尾家の古文書の「有物覚」の記録が最初です。 当地方に於いて醤油生産が盛んに行われるようになったのは、まず良質の大豆、小麦、それに入浜塩田でつくられた塩、特に赤穂塩が手近に得られたこと、さらに揖保川水系の良質な水に恵まれたということががあげられる。 下霞城の武家屋敷は落ち着いた町並みで、武家屋敷を連想できる雰囲気を留めている。中霞城の武家屋敷は、白壁の土塀が連続する町並みで、脇坂藩公邸跡もあり昔の景観が維持されていた。 大手筋を南にくだり本町に入ると古い町並みが出現し、醤油醸造の商家があった。本瓦葺、虫籠窓、白壁造り、煙り出しの付いた商家の建物が道路の両側にあり西側に三棟が道に面して建っていて、それだけで大迫力である。菊屋という屋号で文政元年(1818)頃より醤油醸造業をはじめ、明治3年には醤油造石高1000石を越える龍野のトップに躍進した商家である。 日山街道沿いの日山町には伝統的な古い町並みが連なって並んでいる。このあたりは商家というより宿場町の様相である。本瓦葺、切妻造り、虫籠窓、平入りの町並みが残っていた。 下川原商店街の北少しのところに「門の外」という変わった地名のところがある。そこにも醤油醸造工場があり、その辺りも伝統的な家屋の建ち並ぶ地域であって、レンガ造りの煙突もあった。 兵庫県の歴史散歩下 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 たつの今昔 龍野市 龍野市史編集係 昭和61年 町並み・家並み事典 東京堂出版 吉田桂二 昭和61年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名辞典編纂委員会 昭和63年 |
中霞城の武家屋敷 |
門の外(町名)の町並み |
本町二丁目の町並み |
上川原町の町並 |
本町二丁目の町並み |
下川原町の町並(少し前までアーケードの下だった) |
日山の町並 |
上川原町の町並 |