江戸時代の旧高槻城下は今の阪急電車高槻市駅を境にその南側であった。 高槻城は鎌倉期末に入江氏がこの地に入り居館を構えたのにはじまり、和田惟政が織田信長の分国として高槻城に入り、次いでその家臣のキリシタン大名の高山右近が高槻城主となった。高山氏の時代に城域の拡張が行われ築城が行われたようである。 天正13年(1585)高山右近が秀吉により、播磨明石国に移封後、キリシタン弾圧に伴って城下町も衰退した。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い後は、城主は内藤・土岐・松平・岡部氏とめまぐるしく代わった後、慶安2年(1649)に3万600石の永井氏が入り、明治2年の版籍奉還まで13代にわたって支配した。 「五畿内志」(江戸時代の地理学者並河五一の著書)によると、江戸初期の高槻城下十六町とは、本町・新本町・横町・馬町・柴屋町・牢屋町・魚屋町・八幡町・川之町・新川之町・寺町・田町・紺屋町・土橋町・高西町・新町という。 高槻村の家数・人数は元禄年間(1688〜1704)と推定される資料では411軒・1,723人、宝暦10年(1760)の巡見使差出では472軒・2,195人、天明8年(1788)の同差出では468軒・1,865であった。 武士人数は延享2年(1745)頃永井氏家臣団120〜130人、同足軽356人といわれ、これらの家族を含めて武家人口が2,200人程度と推定され、両方を合わせると18世紀前半で4,600人前後であった。 18世紀前半頃の高槻城下町の町域は、今の城内町・野見町・出丸町・大手町・城北一丁目・土橋町・八幡町・上本町・京口町の区域であって、高槻村の区域は城下町の区域に今の高槻町・北園町・城北二丁目・城西町・本町・庄所町・高西町・城南町一丁目を加えた地域であった。 古い町並は阪急電車高槻市駅南側から旧高槻城跡にかけて展開するが、特に城北町一丁目・大手町・上本町には煙だしも備わった伝統的な民家も点在する。この辺りは城下町当時は町人町だった所で、高槻城下は大きな商業地域でなかったのだが、4,600人もの生活用品を商う商人や問屋が営業し、在郷町的な役割も兼ね備えていたのだろう。 残っている伝統的な民家の建物は切り妻造りの中2階建て又は2階建てで、虫籠窓も備わり、中には煙り出しも備わった民家がマンションの隣で、ここにいるぞと自己主張しているようだった。でも40万都市の駅前にどうしてこのような古い町並が残っているのか不思議な町だ。 大阪府の歴史散歩上 山川出版社 大阪府の歴史散歩編集委員会 1990年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和61年 大阪府の地名T 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1989年 |
上本町の町並 |
城北町一丁目の町並 |
城北町一丁目の町並 |
城北町一丁目の町並 |
城北町一丁目の町並 |
上田辺町の町並 |