高槻市富田の町並み 
富田町4丁目・富田町5丁目・富田町6丁目
地図


                富田町三丁目の町並

高槻市富田は16世紀中頃には寺内町として栄え、江戸時代に入って酒造業で栄えた町である。
富田が、町集落へ歩みだしたのは、城下町高槻より古く、戦国時代はじめの文明8年(1476)頃に創建された、一向宗の富田道場を核として形成された寺内町にさかのぼる。
その後、天文元年(1532)には、細川勝元の兵に富田道場をはじめ一向宗信徒の家々は残らず焼き払われ、富田道場が教行寺として再興されたのは、5年後の天文5年(1536)以降であった。
文録3年(1594)には富田村の検地が実施された。それによると富田には436筆という多数の屋敷地があり、その面積は8町7反余りにもなっていた。この集落規模は同年の高槻村検地帳に登録された屋敷が、268筆、5町1反余りだったのと比べると、富田の方が圧倒的に大きく、その繁栄ぶりがわかる。
江戸時代の富田村は幕府領と諸藩のめまぐるしい領主の変遷で、十数回の領主変更があった。江戸時代前期の富田については、富田寺内の中核となった教行寺の南と西には御坊内町、東には南岡町、北にはヨコ町・西之町があり、その北辺には東町・中之町・西之口町の三町が東西に続き、教行寺が再興されたのと並行して計画的に造成された寺内町の名残である。東町から西之口町にかけては、典型的な短冊型宅地割をとどめ、この地区が寺内町の商業地区として賑わっていたもものと推定される。
中世末以来の寺内町・宿町としての富田は、文録3年(1594)の太閤検地により大きく変貌した。寺内町としての特権を失い。宿場町としての機能は、西国街道の整備とともに芥川宿へ移行したのである。
近世初期富田村の商工業を代表したのは、紅屋を中心とする酒造業の展開であった。江戸初期に紅粉屋(紅屋)市郎右衛門一門が徳川家康に商業の特権を安堵されて酒造を開始した。そして富田酒は急速に名声を高め、延宝8年(1680)には24軒で8270石造っている。これは富田村酒造業がもっとも盛んであったころの数字である。
しかし江戸中期以降、池田・伊丹の酒造や、灘・今津の酒造に押されて富田酒の醸造は衰退の一途であった。そして富田の酒造業は、幕末で7〜8軒になり、現在は2軒の酒造家が伝統の製法・技術などを受け継いで、地酒の味を守り伝えている。
町並み指数 30
参考文献
   高槻市史  高槻市  高槻市史編纂委員会
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会

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