西国街道は京都と西国を結ぶ街道で、京都の東寺口から伏見・山崎・芥川・郡山・瀬川を経て西宮で山陽道と合流する街道であった。 また、参勤交代の西国大名は京都の町を逸れて山崎・伏見から山科・大津のルートを採っていて、あたかも参勤交代路の観があった。 しかし京都、大坂の間だは、淀川の水路があり、一般の旅客はむしろ淀川の三十石船による水路利用や、京街道と呼ばれる、東海道の延長路である、淀・枚方・守口ルートを利用していたようだ。 江戸時代の梶原村は初め高槻藩領、慶安年間(1648〜52)から幕府領、寛文2(1662)年からは高槻藩領であった。安満村は江戸時代を通じて高槻藩領であり、元禄年間(1688〜1704)と推定される本光院様御代御領内総名寄によると梶原村は家数87軒・人数357人。安満村は家数93軒・人数431人であった。 両村とも村内を西国街道が通り、安満村の西部域では街道沿いに新町が成立し発展したと言う。 今、両村域とも旧西国街道当時の面影を色濃く残し古い町並みが各所に残っている。切り妻造り中2階建て、虫籠窓、格子を備えた商家の建物が多く点在し、煙り出しが備わった家屋を多く見かけた。 JR高槻駅・阪急電車高槻市駅から安満地区は1km未満、梶原地区も2km前後と至近距離にありながら、開発の手が余り入っておらず、古い町並みが街道町当時のままの姿を今に留めていた。 大阪府の歴史散歩上 山川出版社 大阪府の歴史散歩編集委員会 1990 西国街道 向陽書房 片岡 衛 昭和59年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 大阪府の地名T 平凡社 平凡社地方資料センター 1986年 |
梶原一丁目の町並み |
山手町一丁目の町並み |
安満東の町の町並み |
安満東の町の町並み |
梶原一丁目の町並み |
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