高槻市芥川宿の町並
芥川町2丁目・3丁目
地図


芥川宿の町並み
  江戸時代の芥川村は西国街道の宿場町であって、宿駅が置かれ寛永年間(1624〜44)以降参勤交代の大名行列の通過などで賑わったという。
この地は中世から近世(江戸時代)にかけて、宿場町芥川・寺内町富田・城下町高槻と互いに関連しながら発展した。中でも在郷町として発展したのは芥川と富田であって、京都と西宮を結ぶ西国街道は、東海道と中国路を結ぶ近道として、参勤交代や旅客や物資輸送に利用された。
また、丹波地方への分岐点であり、高槻城にも近く城下へは八丁松原の連絡道で結ばれていた。
宿駅芥川宿は寛文年間(1661〜73)には、本陣3軒、脇本陣1軒、民家800軒、人数4000人余りを数えたという。
芥川村は江戸初期には幕府領であったが、元和3年(1617)からは高槻藩領であった。
天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると、町並み東西9町、家数253軒、人数1150人、本陣1軒、旅篭屋33軒で、本陣は享保年間(1716〜36)から河内屋吉兵衛であった。
富田は江戸初期には酒造業が栄え、大量の酒造米を消費したため、当地には米相場が立ち、畿内の米相場の一旦を担った。
城下町高槻については、高槻城は鎌倉期の末に,入江氏によって築かれたのが始まりで、その後、キリシタン大名高山右近によって城郭が拡大された。城内に多くの家臣団、城周辺には農民を居住させたが、商人がいなかったのが特異であった。江戸初期には城主が目まぐるしく交替したが、慶安2年(1649)に永井直清が入り、明治2年の版籍奉還まで13代にわたって支配した。
芥川宿はJR高槻駅から続く芥川商店街が切れた所にある「芥川の1里塚」の榎の大木から始まり、西へ約400mの芥川橋までが宿場であった。一里塚の榎は今では片側が残っているだけだが、かっては道の両側にあって、旅人に行程の距離を測るために設置されたものである。
芥川宿では東側の1里塚の榎だけが残っているが、20年程前までは反対側にも榎があって、その西側には風格のある本陣の遺構も残っていたにだが、今ではまったく何も残っていない。
この西国街道は京都東寺口から始まり伏見・山崎を経て伊丹平野を斜めに横切り西宮で中国街道(山陽道)と結ぶ街道で、参勤交替の大名にも良く利用された街道である。
街道には東から山崎宿(島本町)、芥川宿(高槻市)、郡山宿(茨木市)、瀬川・半町宿(箕面市)、昆陽宿(伊丹市)があった。
この西国街道の宿駅の中でも、伝統的な古い町並みが多く残り、宿場町時代の面影を色濃く残すのはこの芥川宿が一番だと思う。
切り妻造り、中2階建て漆喰塗り込めの虫籠窓、平入り、格子窓の町並みをいつまでも残して欲しいものである。
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参考文献
  大阪府の歴史散歩上  山川出版社  大阪府の歴史散歩編集委員会  1990
  西国街道  向陽書房  片岡 衛  昭和59年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会   

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