高砂は「高砂やこの浦舟に帆をあげて・・・・」と古くからめでたい謡曲としてうたわれ親しまれた「高砂」ゆかりの地。姫路市と加古川市に挟まれて瀬戸内海に面した町である。 戦国時代の高砂には三木別所氏の出城として、高砂城を梶原氏が治めていたが、秀吉の三木城攻略のあおりで高砂城(この時期の高砂城の場所は不明)も落城する。このころには高砂は、漁村、泊地、城下町としての性格を備えた町でかなり発展していたようだ。 関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)に、池田輝政が姫路城主になり、家臣中村主殿助に命じて高砂城を現在の高砂神社付近に築かせた。同時に加古川の本流が高砂の町を流れる様にし、河口に新高砂港を造り、堀川の開削、高砂の町の形成も行った。 慶長6年(1601)には現在の高砂の町の対岸にあった今津町などの住人を移住させた。さらに加古川流域の諸藩の年貢米集積のための米蔵(百間蔵)を設置するなどして、港の機能を整えた。しかし高砂城は元和の一国一城令により取り壊された。 また元和3年(1617)に姫路城主となった本多忠政は、中須又右衛門・加藤隼人らに命じて高砂の町割りを行い、近隣今津町などの住民を移し町を作った。それは碁盤目状の整然としたもので、北は北堀川、東は高砂川(加古川の支流)、南は高砂神社、西は十輪寺にまたがる新市街地が形成されたのである。 その市街地こそ今日の高砂町の原形になっている。高砂川、南堀川に沿う東浜・南浜・材木・今津の各町には船着場や荷揚場があり、問屋の蔵が建ち並ぶ問屋街があった。ここは港町高砂の中枢機能をはたした地域であった。この様に高砂は成立当初は漁村、城下町的性格を持っていたが、領主の積極的な港つくり・町つくりによって近世には加古川舟運と瀬戸内海航路の港町として急速に発展した。 加古川を下る船荷物の主体は年貢米であった。加古川流域には姫路藩の他、天領、諸大名領、旗本領などが入り組んでいて、その年貢米はいずれも加古川船運によって高砂港に運送されていた。しかし、江戸時代後期になって、木綿・干鰯などの代表的商品の流通で新興商人の台頭により、独占体制がゆるみ、特権商人の地位が相対的に低下し、さらに土砂堆積によって港の機能が低下したことなどにより高砂は徐々に衰退していった。 明治新政府による改革によって特権商人は没落し、高砂の経済を崩壊させた。さらに、山陽鉄道の開通によって、貨物は鉄道輸送に移り、海上輸送は後退し、東播地域の物資集散の中心が加古川町に移り、高砂の商業の衰退は決定的なものになった。 魚町にある工楽家は大きな屋敷に大きな主屋、土蔵を構えている。この工楽家辺りは、高砂の伝統的な家屋の建物が連なり、江戸から明治時代の町並みの景観を形成している。 かってはこの工楽家のすぐ前まで堀川があって、付近には米、炭などを扱う問屋が多くあった。細い路地、本瓦葺の屋根、中二階で漆喰塗り込めの虫籠窓、格子、出格子の伝統的な商家、民家の建物が連なる。 工楽家は妻壁に高瀬船の舟板を使用している。主屋は寄せ棟造りの本瓦葺という商家の主屋には珍しい建て方だ。中二階で漆喰塗り込めで格子窓になっていた。工楽家初代工楽松右衛門は我が国で最初に帆布の製造を始めた人で、それまでのムシロ帆にかえて、帆布の改良に工夫をこらして大量生産し、「松右衛門帆」と呼ばれて全国の帆船に用いられるようになった。 兵庫県の歴史散歩下 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 高砂市史 高砂市 高砂市史編纂室 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 |
魚町の町並み |
堀川沿いの土蔵群 |
船頭町の民家 |
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