曽根は曽根天満宮の門前町として発展すると共に、この地では古くから塩業が行われていた。慶長年間(1596〜1614)にはすでに塩田9町歩余りあり、正保元年(1644)までに立場(8町歩余り)・渡場(5町歩余り)・七軒(9町歩余り)・八軒(9町歩余り)などの入浜塩田が開かれていた。元禄11年(1698)には塩浜49町歩余りがあり、製塩業が盛んに行われていたようだ。 「播磨名所巡覧図会」には、曽根神社の門前まで広がっている浜辺で、塩田に働く浜子の姿が描かれている。今の曽根には全く想像もできない。 曽根村は慶長国絵図に曾禰村と書かれている。慶長5年(1600)姫路藩領となるが、正保頃(1644〜48)ころは因幡鳥取藩領と幕府領の相給。鳥取藩領分は寛文2年(1662)福本藩池田氏領、同6年(1666)旗本池田領となった。幕府領分は宝永5年(1708)相模小田原藩領を経て、延享4年(1747)徳川三卿の一橋領となり幕末に至った。 延享4年(1747)の家数532・人数2,025であった。寛延2年(1749)の大洪水で、当村の浜堤防が決壊し、塩田・釜屋敷は甚大は被害を受けている。 曾根村で焼出された塩の大部分は、加古川の奥筋に運ばれていたが、文化13年(1842)からは今市川の上流にも販売が許可され、尚一層繁栄した。 明治14年には塩田46町歩余り、家数637軒・人数2,825人。塩田は大正3年50町歩余り、昭和3年52町歩余り、昭和15年31町歩で、流下式製塩法を経て昭和30年には殆ど廃絶した。 瀬戸内に古い町並みは各所に残っている。開発激しい地区であるのに、高砂市内でも高砂町・曽根町・北浜町と市内各所で見ごたえのある古い町並みが残っている。瀬戸内一帯の歴史的遺産の蓄積量は大したものである。 曾根町では、曾根天満宮の北西部に塩田で、塩の製造、販売に従事した商家の建物が多く残り、古い町並みを形成している。大庄屋の入江家を始めとして、伝統的な商家の建物が連なった所もあり、なかなか見ごたえのある町並みが展開していた。 伝統的建造物は切り妻造り、中2階建て、平入り、本瓦葺き、漆喰塗り込めの虫籠窓、格子が標準のようだが、中には入り母屋や妻入りも混じり、最近修復された建物では桟瓦葺きであった。 兵庫県の地名U 平凡社 下中直人 19991年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 。 |
曽根町の町並み(大庄屋の入江家) |
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