宝塚市小浜の町並み
小浜5丁目
地図


小浜5丁目の町並
  兵庫県の南西部、400m〜500mの丘陵地帯と平野地帯の境目に位置し、小浜は宝塚の中心街から更に西方の宝塚ICの傍にあった。
小浜は京都・伏見・大坂より池田・伊丹・西宮、更に奥の三田・有馬方面への街道筋にあたっていてた。明応年間(1492〜1501)の建立とされる浄土真宗豪攝寺(別名 小浜御坊)の寺内町として成立したものと推定される。
この時代は戦国大名が覇を競っていた時代で、真宗の門徒が農民や僧侶と組んで、守護大名や戦国大名と抗争をした一向一揆の時代で、小浜もその一つの拠点であった。 自然の地形を上手く利用して、北・西・南の三方を大堀川が迂回し、東側には谷の上池・下池及び土塁で囲み、四方に門を設けて防御を固めていた。
小浜の地が町として現れるのは、江戸時代の初頭、元和3年(1617)の「攝津高改帳」に「七拾石 小浜町」と記されている。その後の史料にも「小浜町」と記されていて、宝塚市域で唯一の町場として存在していたことが解る。
交通については、大坂から伊丹を通り、湯山(有馬)にいたる湯治の道としての有馬街道。西宮から伊子志の渡しで武庫川を渡り、酒や米を運んだ西宮街道(馬街道)。京都・伏見から山崎を通り、瀬川半町や加茂を経て入ってくる京伏見街道などの道筋が入っていた。
このため小浜は、江戸幕府から交通の要衝として重視され、正徳元年(1711)の抜け荷の禁止や「駄賃定札」(馬による荷の運送費を記した札)が、小浜皇太神社に残っている。
はじめは幕府領であったが、元禄7年(1694)から武蔵国忍藩領。文政6年(1823)幕府領。文政10年(1827)からは一橋家領。文政10年(1827)の一橋家領村々様子大概帳によると家数192軒・人数842人。
嘉永4年(1851)の記録によると、家数202軒・人数800人であり、馬借・問屋・茶屋・旅篭などが並ぶ町場で、専業農家は無かったとされている。
小浜では酒造が古くから行われていて、元禄年間から始まったようである。井原西鶴の「日本永代蔵」の中で、銘酒の産地として小浜の名をあげている。小浜流という独特の醸造法があったようであるが、酒造株は灘などに売却されたようだ。
阪神淡路大震災以前には、古い町並みが残っていたのあるが、今は殆ど建替えられて、昔を偲ぶ町並みは極僅かである。
町家は通り土間形式を主としていたようで、現在も豪攝寺の北側に古い町家が少し残っていて、虫籠窓や格子戸の佇まいも残している。
数が少ないので町並みの一般的な様式については解らないが、ほぼ完全な型で残っている町家についてみると、主屋は切り妻造りの中2階、白漆喰塗り込めの虫籠窓、本瓦葺き、荒格子や出格子が備わっていて小さな袖壁も設けられていた。奥行きの大きな商家の建物で、土蔵やその他の付属建物も揃って健在であった。
町を歩くと小浜だけが台地になっていて、三方を大堀川が迂回し、開けた方には谷の上池や谷の下池がある。戦国時代には自然の要害を利用した寺内町の武装都市だったことが理解できる。そして現在でも有馬街道へ続く北門跡、京伏見街道への東門跡、西宮街道(馬街道)への南門跡にはそれぞれ小さな社の愛宕宮が祀られている。
町並み指数 30
参考文献  
  兵庫県の歴史散歩上  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年  

小浜5丁目の町並

宝塚市小浜宿資料館

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