田尻町の町並み
吉見・嘉祥寺
地図


吉見の町並
 泉南一帯は戦国期初頭においては和泉国守護と根来寺の抗争の場となり、戦国期末、天正5年(1577)の織田信長の紀州攻めに際して、本願寺顕如が紀伊国雑賀をはじめ、諸浦警固衆に防備を命じたなかに、嘉祥寺の名も見られる。当時このあたりには浄土真宗の門徒集団が存在したことが判る。
吉見村は天正13年(1585)以降豊臣氏の直轄地であったと思われるが、元和5年(1619)から岸和田藩領、享保5年(1720)幕府領、天明2年(1782)遠江相良藩領、天明7年(1787)再び幕府領、文化13年(1816)岸和田藩預かり地、天保4年(1833)近江三上藩領となる。
嘉祥寺村は、吉見村同様元和5年(1619)岸和田藩領となるが、天明2年(1782)幕府領となり、天明4年(1784)再び幕府領となり明治を迎えた。
この地域一帯はいずれも早い時期から農・漁村集落を形成し、果樹栽培や繊維関係家内工業が広範に展開していたようであるが、特に嘉祥寺村は漁業・海産物流通の拠点として発達していた。当時この地方の漁業や海産物取引は海路交通を主にし、全国的な活動範囲を持っていた。
元禄年間(1688〜1704)には嘉祥寺浦には450石〜500石積みの船6艘、80石〜100石積みの船7艘、武州・房州に出漁する漁船203艘が属していたという記録が、千葉県大原町の浄土宗昭願寺の過去帳に記載されている。当時の住民の遠国進出が伺える。
この地では江戸時代後期から和泉木綿の生産地として著名であったが、大正時代に入るとこの地方で近代紡績・織布工業が発展し、人口も急増している。この紡績・織布工業の発展に大きく寄与したのが吉見村出身の大阪合同紡績社長の谷口房蔵である。
もう一つ、この地の特産品にタマネギがある。明治の中頃から始まった栽培で、その優れた品質で良く知られ、今でも京阪神市場に出荷されている。
吉見も、嘉祥寺も農村集落の様相を今に伝えている。どの家も重厚な入り母屋造りや切り妻造りで本瓦葺きのどっしりとした家屋である。建てられたのは江戸末期から明治・大正にかけてと思われる家が多い。
細い路地道に面して、広大な屋敷に重厚な主屋・土蔵が建ち並ぶ光景は、かっての繁栄の証である。
これらの集落は海岸に面していて、海岸へ出てみると、目の前に超近代的な関西国際空港の巨大な人工島が横たわり、大きな飛行機が頻繁に発着を繰り返していた。
町並み指数 60
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名編纂委員会  昭和58年
   大阪府の地名U  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1986年   


吉見の町並

吉見の町並

吉見の町並

吉見の町並

嘉祥寺の町並

嘉祥寺の町並
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