太子町山田は日本最古の官道の竹内街道が通る村であった。 竹内街道は、堺市の大小路から河内平野を東に向かい、羽曳野市を経て太子町を通り、二上山の南・竹内峠を越えて奈良県当麻町の長尾神社へ至る全長約30kmの街道です。 推古天皇21年(613)に作られたと云われています。 かって遣随使や遣唐使もこの街道を通り、飛鳥時代、中国や朝鮮の優れた大陸文化がもたらされ、飛鳥文化を開花させた。都が和銅3年(710)に奈良の平城京に移ると、官道としての役を失ったが、自治都市・堺が栄えた中世末には、堺と大和を結ぶ道として再び脚光をあび、竹内街道ができあがる。江戸時代になり、西国巡礼や伊勢詣、山上参り(大峰詣)などが盛んになるにつれて、それに利用された竹内街道は宗教の道でもあった。 江戸時代のはじめは幕府領、明暦2年(1656)京都所司代役知、寛文8年(1668)幕府領、寛文9年(1669)山城淀藩領、享保8年(1723)下総佐倉藩松平氏領、‥‥‥と領主の交代が繰り返され、天明8年(1788)からは幕府領となり明治を迎えた。 延享−寛延(1744〜51)頃のものと推測される石川郡二十四ヶ村明細帳によると百姓役家254・無役家88、人数1,389人であった。明治9年の人数1,651人。 特産品として、紫草・茜草による山田茜・紫染があった。二上山より産出する金剛砂も名産であった。安政期(1854〜60)には木綿問屋もあり、嘉永4年(1851)には田中伊兵衛・伊右衛門・佐五郎・矢野伝右衛門という油商4名の名があり、堺方面と取引していたようである。 今に残っている山田の古い町並も、農山村集落と街道筋の町並とが入り混じった景観を呈している。街道筋に面した切り妻造り平入りの茅葺屋根、瓦屋根の家と、農村集落の、街道から少し奥まって、主屋の前に庭をもつ家が混在する集落風景である。 この町並の大きな特徴の一つに、白漆喰に塗り込められた持ち送りのある水切りの存在であろう。山を一つ越えた奈良県側の竹内街道沿いの竹内集落には殆どこの白漆喰の持ち送りは見られないで、大阪府側と奈良県側では、大きな建て方の違いが有る。 大和棟については、竹内集落には少なくなったといっても、多数の大和棟の家屋が残っていたが、太子町山田には一軒の大和棟の家屋が残っていただけで、街道の続きと云えども、建て方の相違は相当なものであった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 大阪府の地名 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1986年 絵図でみる 竹内街道 太子町立竹内街道歴史資料館 平成6年 |
太子町山田の民家 大和棟の立派な家屋 | 太子町山田の町並 |
太子町山田の町並 |
太子町山田の町並 |
太子町山田の町並 |
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