洲本市の町並み
本町1丁目〜4丁目
地図


本町4丁目の町並
 洲本市街の南の三熊山の山頂に洲本城跡がある。大永6年(1526)に安宅氏によって築かれたものだが、天正9年(1581)織田信長の命を受けた羽柴秀吉と池田勝九郎に攻められたあと、仙石秀久が洲本城主となり、次いで脇坂安治が洲本城主となり大改修をしたと言われている。
次いで池田輝政が淡路の支配者になり、その三男忠雄が淡路岩屋城を、さらに由良の成山に新しい城を築いた。
元和元年(1615)蜂須賀家政の子至鎮は大坂の陣の功労により淡路一国を加封され、以後淡路は蜂須賀氏の徳島藩領として明治維新を迎えた。
蜂須賀至鎮は当初由良城を重視して政庁を置いていたが、寛永7年(1630)に許可を得て、洲本川河口の三熊山の下に城を築きはじめ、城下町の整備に着手した。(三熊山頂の城を上の城、山麓の城を下の城という)
由良から政庁・寺院・武家屋敷等が洲本に移転された。このことを「由良引け」という。
城下はそのほぼ中央を南北に掘削した内堀によって内町と外町に分けられた。内町と外町とも整然とした町割が行われたが、内町と外町との接合部が食い違い、町割りの角度も違っている。この町割りはそのまま今に残っていて、洲本市街の特徴になっている。
洲本城下町がほぼ完成するのは江戸中期の天和−貞亨(1681〜88)頃と言われている。洲本城には寛永8年(1631)徳島藩筆頭家老稲田修理亮が配され、以後稲田氏は洲本城代として江戸時代の淡路を支配した。
寛延年間(1748〜51)の武家地の家数は300とされ、寛文6・7年(1666・67)頃の町家数は340。寛延年間(1748〜51)にはおよそ900軒であった。
洲本の江戸時代は後背地を持たないためか、城下町としての発展に依存していたようで、これといった商業活動もなく産業も育っていない。
明治に入り、製陶・製紙・紡績などの産業が発足したが、水・原料・交通面の制約があり、紡績と製紙などの軽工業に終始した。中でも紡績の功績は大きかったが、昭和30年代前半から紡績にも陰りが見えはじめ、鐘紡が半導体製造工場に転換している。
洲本川の河口流路は明治中期までは現在より南、三熊山寄りにあった。明治35年から始まった洲本港の改修工事に合わせて、洲本川の河口が北に移動され、旧河道の埋立地に工場が誘致され、鐘紡などの工場が建設された。 
今回訪ねた町並みは、本町1丁目から4丁目にかけての地域である。洲本郵便局のある旧細工町通りとその一本北側の通り町一丁目から通り町4丁目と言われた辺りである。
江戸初期に洲本城の築城と同時に町割りされた内町の町並で、碁盤目状に区割りされた整然とした町並である。内町と外町を分けていた掘割は明治時代に埋め立てられた。
展開する古い町並は連続する古い建物は少ないが、古くからの商店街だったことが理解できる町並みである。平入り切り妻造りの中2階・2階建ての建物が連なっている。本瓦葺きの商家建物の健在だったし、本瓦葺きの民家も多く見られる町並であった。
町並み指数 40
参考文献 
  兵庫県の歴史散歩下  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年
  兵庫県の地名T  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1999年

本町2丁目の民家(商家の建物)

本町2丁目の町並

本町2丁目の町並

本町2丁目の町並

本町1丁目の町並

本町1丁目の町並

本町1丁目の町並

本町4丁目の町並

本町4丁目の町並

本町4丁目の町並
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