由良浦は淡路島の南東部に位置し、紀淡海峡に面していて、内海(大阪湾)と外洋(紀伊水道)の接点にあたる。 慶長15年(1610)淡路を与えられた池田忠雄は淡路支配の南の拠点を由良に定めて由良城(成山城)を築いた。慶長20年(1615)大坂の陣で戦功のあった阿波徳島藩蜂須賀至鎮に淡路一国が加増された。蜂須賀至鎮は当初、由良の地を淡路領有の拠点とし、稲田修理亨を城代として派遣した。しかし由良は海上交通の要衝ではあるが、城下町を造る余地もなく、淡路一国を支配する地として適さないと寛永7年(1630)に洲本に移転する旨が承認された。 寛永8年(1631)から同12年(1635)にかけて洲本に城を築いて、政庁・寺院・武家屋敷・商家などを移した。これを「由良引け」とよんだ。 由良引け後も交通の要衝である由良浦にはお屋敷・番所などが設けられていた。津名郡反別戸数取調書によると江戸後期の家数783・人数3,155、加子役117人とある。 由良湊は絶好の泊地であるが、湊口が東向きであることから船の出入りに不便で、東風と土砂の流入により、湊口が閉鎖されることが度々であった。そこでこの不便を解消し、大型船の入港を可能にするために新川口掘抜きの申請が明和元年(1764)に出され、翌2年から3年にかけて新川口開削工事が藩営で行われた。これにより由良と繋がっていた成山を掘割で切離したものである。これにより由良浦は大坂・江戸間を通う菱垣廻船の寄港地となり、又、紀伊水道を航行する船の風待ち・潮待ちの湊として利用されるようになり由良浦は繁栄した。 また、漁業も盛んで、沼島、紀州加太、洲本の漁民と絶えず競合し、漁法・漁期・漁獲高などの協定が江戸初期から結ばれていた。 明治20年の家数1,406・人数7,102であり、職業別では農業189、漁業904、商業181、工業35ほかとなっていて、漁業従事者が圧倒的に多い。昭和2、3年頃の家数1,756のうち農業154、水産業943、商業382、公務・自由業103、工業108、他66とあり水産業を生業としている家が圧倒的に多いのがわかる。 昭和30年代頃から由良湾内でハマチや真珠の養殖が始まり現在まで続けられている。 今古い町並は由良1丁目から由良4丁目まで続く古くからの細い道に沿って展開している。 その長さ約1.5km程に亘り古い町並が展開していた。切り妻造り平入り、中2階建ての商家の建物から、板張りの間口の狭い建物まで混在している。新しい様式の家屋が混じるのは仕方ない現象だが、古い伝統的な形式の家屋が連続して残っている所が多く見応えがある町並である。それも中心地域の由良2丁目・3丁目よりも由良1丁目と4丁目に多く残っているのは、中心地の建て替えが進んでいることによると思われる。 兵庫県の地名T 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1999年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 |
由良4丁目の町並 |
由良4丁目の町並 |
由良4丁目の町並 |
由良4丁目の町並 |
由良4丁目の町並 |
由良3丁目の町並 |
由良1丁目の町並 |
由良1丁目の町並 |
由良1丁目の町並 |
由良1丁目の町並 |