今回訪ねたのは都志川河口南南西の万歳村に含まれる通称新在家と呼ばれる付近である。元和元年(1615)からは阿波国徳島藩領都。志浦は都志川河口北北東の海浜付近の大浜と、南南西の海浜付近の通称新在家からなる。都志浦は反別戸数取調書では無高とあり、家数197・人数969とあり、新在家村だけでは家数57・人数404とある。都志浦は加子浦で延宝年間(1673〜81)の加子役53人とあり、20石積みから550石積みの船37艘があり、漁業も活発に行われていたようだ。ハマチ・イワシの地引網漁業が盛んであった。 幕末にはカレイ釣漁・蛸引漁・手繰網雑魚漁などが行われていた。 新在家には番所と制札場が置かれていた。 淡路瓦の創始者清水理兵衛一族の清水吉右衛門が新在家に定住して、文化年間(1804〜18)に活躍して当地に淡路瓦を広めた。 昭和9年の職業別戸数は総戸数737のうち農業364・商業130・工業57・水産業47であるが、昭和10年の瓦製造業の戸数28・職工数101とあり、瓦生産で活況を呈していたことがわかる。 今、古い町並は一部に残っているだけであり、古い町並とは云えない状態だ。淡路島の西側は風が強い所でしょうか、屋根瓦には白漆喰で押さえられていた家屋が目に付いた。 兵庫県の地名T 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1999年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 |
五色町都志の町並 |
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五色町都志の町並 |
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