今回訪ねた所は、江戸時代には山田小川村、山田上村、山田中村と言われた辺り。千里丘陵から安威川に注ぐ山田川上流域の村々である。 江戸時代は小川村・上村・中村共に、はじめは幕府領、寛永2年(1625)から京都所司代板倉重宗領、寛文9年(1669)からは山城淀藩領となり幕末になる。 山田川は中村の東部を、小川村と上村の中央部を流れ、その平坦地にそれぞれ集落が形成されている。旱損地帯のため溜池の利用については詳細な規定が設けられていた。 明和7年(1770)の家数・人数は中村で79・388、小川村で122・578、上村で164・747であった。 これという特産品もなく、ごく普通の農山村集落であっただろうが、上村には大庄屋も居たので大きな集落を形成し、発展した集落であったことが伺える。 今町並みを歩くと、明治時代から昭和初期に建てられた、伝統的な様式の建物が点在する。 街道沿いの宿場町や在郷町で無いので、建物が連なることは無いが、伝統的な農家様式の建物が道に沿って展開する風景は、裕福だったかっての富を象徴しているようだった。 大阪府の地名U 平凡社 平凡社地方資料センター 1986年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58 |
山田東4丁目の町並 |
山田東4丁目の町並 |
山田東4丁目の町並 |
山田東4丁目の町並 |
山田東4丁目の町並 |
山田東4丁目の町並 |
山田東4丁目の町並 |
山田西2丁目の大庄屋の門、マンションの入り口になっていた。 |
山田小川の町並 |
山田小川の民家 |