吹田(古くは高浜)の地が脚光を浴びるようになるのは、延暦4年(785)の淀川と三国川(神崎川)を結ぶ水路の開削である。三国川の北岸の砂堆上に位置していた吹田は、この水路によって淀川と繋がり、瀬戸内海から淀川や神崎川を経て平安京や長岡京に至る水上交通路上に位置付けられることになった。 織田・豊臣期でも吹田氏が三好三人衆に組したことから、織田信長に攻略されていたり、天正10年(1582)に豊臣秀吉が吹田之津宛に禁制を出されていることからも、当時の吹田が神崎川沿いの河港として重要であったことが伺える。 太閤検地によると、当時から吹田村は町場的性格があり、少数ではあるが鍛冶・紺屋・船頭・扇屋などが見られ屋敷数は263もあった。 江戸時代に入りますます町場的性格が強くなり、酒・油・米・醤油・柴薪などを扱う問屋も多く、桶屋・鍛冶・紺屋・医者・大工・質屋なども存在していた。また吹田が水上交通集落であったことは古代以来変わりなく、神崎川の吹田渡しは摂津名所図会にも描かれている。 淀川・神崎川筋では物資の運送にあたる過書船や、肥料を運搬する屎船の活躍が見られる。 天保14年(1843)の村明細帳では、家数226・人数1,024とある。江戸中期と推定される村明細帳では家数831・人数3,186、酒屋・油屋・縄莚屋などの商家が71軒あり、町場であったことが判る。特産品は木綿・菜種の他に芹・クワイ・藁製品・酒等でこれらは神崎川沿いの吹田浜から過書船などで大坂に運ばれた。その中でもクワイは有名で吹田クワイとして名が知られていた。 明治に入り大阪麦酒会社(現アサヒビール)が設立され、吹田の経済発展に大きく寄与した。更に大正12年には国鉄吹田操車場が操業をはじめ、吹田は「ビールと鉄道」の町として知られるようになった。 今、一番古くから町場となった、高浜町・内本町を歩くと初代吹田市庁舎跡の碑が高浜神社前に建っている。そして古い伝統的な家屋が点在していたが、どの家屋も農村集落の様相であって、街道に面した商家の建物でない。旧亀岡街道が南高浜町を通っていて、街道筋だった石碑も見られるが、やはり農村集落の様相だった。 かっての「吹田の渡し」近くに古い民家を再現した「浜屋敷」がオープンしていて貸し施設となっていた。また広大な屋敷の旧西尾家を吹田市が公開していた。相続税で物納されたため、近畿財務局が競売にかけようとしたが、地元の反対が起こり吹田市が国税局から借受けて公開しているものである。建築当初から殆ど改造されてない建物で、なかなか見ごたえのある建物だった。 大阪府の地名U 平凡社 平凡社地方資料センター 1986年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58 |
南高浜町の町並 |
南高浜町の町並 |
南高浜町の町並 |
南高浜町の浜屋敷(貸し施設) |
内本町3丁目の町並 |
内本町3丁目の町並 |
内本町2丁目の旧西尾家 |
内本町2丁目の茅葺き民家 |
内本町2丁目の茅葺き民家 |
内本町2丁目の町並 |