新温泉町の旧浜坂町浜坂は兵庫県最北西部に位置し、日本海に面している。江戸時代は農業と漁業が生業であったが、廻船業や針金・縫針の生産も行われていた。 慶長10年(1605)因幡国若桜藩と旗本宮城氏の相給、元和3年(1617)旗本宮城氏の知行、正保元年(1644)幕府領、寛文8年(1668)豊岡藩領、享保12年(1727)からは幕府領で幕末を迎える。 浜坂は岸田川の左岸にあり、同川河口附近に流れ込む味原川の西側には町場が形成されていた。この町場は戦国末期から江戸初期にかけて、この地を領有した宮部継潤や旗本宮城氏が置いた芦屋陣屋の陣屋町として整備したもので、陣屋の廃止後も在郷町として賑わいを見せ、多くの商人や職人が暮らしていた。 宝暦10年(1760)の村明細帳によると家数469・人数1,783、諸職業として大工18・船大工14・紺屋7・鍛冶屋7・医師5などがいた。また漁師も150余りを数え、タラ・カレイ・サバ・カジカ・イワシなどを獲っていた。農業の進展と相まって、漁業や廻船業・酒造業などが次第に盛んになり、寛政年間(1789〜1801)には鋳物師職・鍛冶職も多く、針金の生産が盛んで、廻船によって各地に売りだされていた。 この頃伊勢屋市原惣兵衛により長崎から導入された縫針製造業は、針金の発展と共に進展し、浜坂名産「みすや針」の名で全国に知られるようになった。この様に急速に縫針生産が進展したのは、当地には周辺の山々でタタラ場が経営されていて、多くの鍛冶屋が住し、針金製造が行われていた所に縫針製造の技術が入ったものだから急速に発展したと思われる。 また江戸中期には廻船業を営むものも現れ、宝暦3年(1753)には22艘の廻船を有していた。 明治5年の資料によると浜坂村658軒のうち、縫針製造関係と思われる家は針職144・針金手間35・針手間27・針金引12・針金鍛冶7・針金職6・針仕2・縫針職1・針金商1・針金工1・針金仕1の計237と、4割弱の家々が針金や縫針に関わっていた。 今回訪ねた町並みは味原川の西側で、商家が並んでいると云うような在郷町でもない。北部の海岸近くは漁業関係者が多いそうだが、訪ねた辺りは漁村でもない。町規模からみるとお寺が多いのは陣屋町の名残だろう。 でも町の各所に伝統的な様式の大型家屋が点在している。漁師町とも思える所もあり、小さな在郷町・宿場町がそのまま今に続いていると見るのがよいようだ。赤褐色の瓦と黒い瓦が混じり合った町並みである。海岸に近いので板貼りの家屋が多く、千本格子を残した家、煙出しを備えて家も目に付いた。 兵庫県の歴史散歩上 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996 神戸市史 神戸市 神戸市史編纂委員会 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 |
浜坂の浜坂先人記念館 |
浜坂の町並 |
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浜坂の民家 |
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