泉南市信達の町並み
信達牧野・信達市場
地図


信達市場の町並
 この地は中世より賑わった熊野詣でのための熊野街道が通り、宿駅として賑わい、江戸時代には紀州徳川家の参勤交代の紀州街道となり、本陣・旅籠などが置かれ栄えた。
この地方一円は、室町期には山名・大内氏を経て細川氏の支配であったが、戦国期には紀伊根来寺の勢力が強大となり、その勢力範囲は貝塚・岸和田辺りまで広がり、当地も根来寺の支配を受けた。
これに対して天下統一を目指す織田信長・豊臣秀吉の再三にわたる根来攻めに際し、根来寺の末寺が多い泉南地方は攻撃の対象となり、社寺や集落は殆ど焼失してしまった。
江戸時代の牧野村・市場村は共に岸和田藩領であった。両村とも古来より熊野詣での熊野街道の道筋に当たり信達宿とよばれ、街道沿いには熊野九十九王子社の一つ信達王子社と一之瀬王子社があった。
中世の信達宿は、江戸時代になっても宿駅として引き継がれ、市場村には人馬継立所があり、信達宿の中心として旧家 小川信左衛門家、のちに角谷与右衛門家に本陣が置かれ、和歌山藩主も参勤交代の往復で宿泊したほど、この地は街道交通の要地であった。
牧野・市場両村の江戸時代の家数や人数は判らないが、明治9年の人数は牧野村492人・市場村896人となっている。
生業は主として米作であったが、農家の副業として江戸初期から綿作が盛んで、元禄初年頃(1688)の作付面積は海岸部で全作付けの4割5分、山手寄りで約1割もあった。この綿作に伴って木綿織(紋羽織)も盛んになり、岸和田藩の保護もあり、天保年間(1830〜44)には大きく発展し、明治に入って軍服用材として需要が増え盛況を見せた。そして伝統の綿織物技術を基礎に明治末期頃より紡績会社が設立され、交通機関の整備と共に発展、近代繊維工業地帯へと発展した。
今、信達牧野や信達市場の旧紀州街道を歩くと、早くからバイパスができて国道26号線となったので、町並はそのまま残され今に明治の町並を残しているのである。入り母屋造り妻入り、中2階建ての重厚な建物が軒を並べていて、板塀の本瓦葺きの家屋も多い。このような町並では、切り妻造り平入りの商家の建物が連なるのが多いが、この町では入り母屋造りの妻入りという特殊な形態の町並みである。
どうしてだろか。でも旧本陣だった角谷家は長屋門は勿論、主屋も平入りであった。
町並み指数 60
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名編纂委員会  昭和58年
   大阪府の地名U  平凡社  (有)平凡社地方資料センター  1986年   


信達牧野の町並

信達牧野の町並

信達牧野の町並

信達牧野の町並

信達牧野の町並

信達市場の町並

信達市場の町並

信達市場の町並(旧角谷本陣)
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