大阪府の南西部、男里川の支流金熊寺川下流右岸、丘陵地が平地に開けた一帯に位置する。 江戸時代を通じて岸和田藩領で終始している。元和5年(1605)松平周防守りよりの引き渡し岸和田藩郷村帳に村名が見え、寛永末年(1644)頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では384石余、延享元年(1744)和泉国村高記では420国余となり、以後大幅な変化はない。 近世初期から綿作が盛んになり「和泉木綿」として世に知られ、紋羽織が多く生産されていた。甘蔗も「和泉砂糖」として多く生産されていて、共に藩の保護のもとに大きな発展を遂げた。 江戸時代には稲作主体の農業には違いないが、作付面積の3割以上を綿作や甘蔗作りなどに当てるほど換金作物作りが盛んだった。 集落の北端を紀州街道が通り、大坂から紀州に向かう主要道となっていた。 今、この幡代集落内を歩くと、普通の何処にでもある農村集落である。細い曲がりくねった道に石を埋め込んだ土塀が多く見られたが、集落を特徴づける程でもない。江戸期には綿作や甘蔗栽培が盛んだった純農村の風景が今に受け継がれている光景と思われる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 大阪府の地名 平凡社 下中邦彦 1986年 |
幡代1丁目の町並 | 幡代1丁目の町並 |
幡代1丁目の町並 |
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