佐用町佐用は兵庫県西部、播磨地方の西部、千種川支流佐用川の中流域に位置する。 佐用村は宇喜多氏を経て慶長5年(1600)姫路藩領、元和元年(1615)平福藩領、寛永8年(1631)山崎藩領、寛永17年(1640)から旗本松井氏の知行地となる。松井氏は陣屋を佐用村に置いて支配したので、同氏領を佐用領と通称し幕末まで続いた。 村高は「正保郷帳」では佐用町と見え1,032石余、「天保郷帳」1,031石余、「旧高旧領」1,032石余。 佐用村には古代から美作道・鳥取因幡道が通る交通の要衝であり、江戸初期には佐用宿が置かれ上町・中町・川原町・新町等の町場が形成された。寛永17年(1640)旗本松井氏が現保健所敷地に陣屋を置き、出雲国松江藩の本陣もできる頃には家数・人数も増加し、在郷町としても機能していた。 佐用宿は東の三日月宿、西の土居宿に、さらに因幡道の平福宿に継送した。 慶長9年(1604)美作津山藩主森忠政が幕命で、美作道を本格的に整備した。それまで佐用村から皆田村の杉坂峠を通っていた経路が、その南の佐用村から佐用川に沿って南下し、上月村から大日山川沿いに大畠村の万能峠越えで美作に入る道(現国道179号線)に変更された。 宿場は出雲国松江藩の参勤交代路のため寛永年間(1624〜44)までには設置されていたようで、本陣も享保年間(1716〜36)までには置かれていて、江戸期を通じて岡田氏が勤めた。 明治24年の家数623・人数2,994とある。 いま、佐用町の中心部には余り宿場町当時の面影は残っていないが、やはり宿場町の伝統を受け継いだ家屋が散見できる町並であった。 平入・切妻造り・2階建てが古い伝統的な家屋の基本のようだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名U 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1999年 |
佐用の町並 |
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