篠山市の町並み
河原町・立町・呉服町・西新町・南新町
地図


河原町の妻入り商家の町並み
 篠山は兵庫県中央部の東端に位置する。
応仁の乱後、波多野秀範(別名秀忠)が丹波守護職になり、はじめて高城山の山頂に八上城を築き、秀経に至って防備を増強した。織田信長の「天下統一」が始まった天正3年(1575)から同7年にかけて、明智光秀、羽柴秀長らの大軍による丹波攻めが始ったが、八上城は織田勢を寄せ付けず城はゆるがなかった。
しかし、天正七年(1579)城内の内紛がもとで秀治、秀尚兄弟は降伏し磔刑にされた。そして八上城には明智光秀が入った。慶長13年(1608)すでに関ヶ原の戦いで天下の覇権を掌握していた徳川家康は、実子、松平康重を常陸国(茨城県)笠間城から八上城に移した。大坂城と山陰、山陽路の連絡を絶ち、大坂の豊臣氏と西国大名に対する抑えとするため、慶長14年(1609)八上城の北西4kmの篠山盆地の中央部に新しい平山城の築城を命じた。それは古今未曽有の天下普請によって行われ、西国15ケ国20人の諸大名(外様大名)に助役を命じ、一日8万人を動員して、わずか6ケ月で完成させた。
慶長14年(1609)松平康重は篠山城の初代城主として、八上城から入城し直ちに、城下町の建設にあたった。城郭を中心として、山陰街道を北の大手にまわし、南を東西に弧を画いて流れる篠山川を防衛の第一線とし、外堀の周辺に侍屋敷を設けた。城郭の東から北にかけて篠山中心部には上級武士の屋敷を置き、城の西側にはお徒士屋敷、南側には足軽屋敷を配した。
これを囲む街道筋に町家を建設、廃城になった八上の城下から商人、職人を移した。町内の道路は見通しを防ぐため屈折やT字交差とし、街道筋町角の要所には八上の城下にあった寺院を移して出城の役目をもたせ、特に京口に当たる河原町筋は道路の屈折個所にそれぞれ一つずつ三つの寺院(真福寺・本経寺・観音寺)を配置した。
町並みとして最初に作られたのが河原町で、この辺り一帯はかって篠山川の川筋に当たっていた。川は南にずらされ、帯の様な跡地を残した。そこに河原町が誕生する。
東西に全長約500mの細長い街路。道幅は4〜5m位で、しかも緩やかに右へ左へ屈曲し蛇行し、見通しは良くない。続いて作られた立町、呉服町、二階町、西町などの通りが6〜7mの道幅を持ち直線的であることとは奇妙な対照である。河原町は城下と外と繋ぐ関門であって、外敵侵入を防ぐ戦略的意図が窺がわれ、城下町が完成するのに50年ほどが費やされた。
町屋は間口2〜3間半の家が多く、奥行きは20〜22間であり、宝暦11年(1761)には家数523軒・人数2672人。天明3年(1783)には家数631軒・人数2663人であった。
河原町妻入商家は今でも健在で、骨董屋、醤油屋、丹波焼の店などが並んでいて、往時の面影がここかしこの残っている。白壁に瓦葺き、千本格子や荒格子、中二階の出格子、蔀戸、虫籠窓、袖壁、中には卯建も残っている。5mから8mほどの狭い間口に奥行きが40m以上もある妻入り商家独特の佇まいである。
西外堀の沿いのあたりは西新町で「お徒士町武家屋敷」があり、商家の連なる通りとは雰囲気が異なる。下級武士の屋敷であったが、やはり支配階級であり宅地は大きい。いまでも入り母屋造りの茅葺き屋根の武家屋敷が5棟残り、中でも二戸並ぶ武家屋敷は、茅葺きの門と土塀を備え、見越しの松もあり、その迫力は江戸時代そのままという雰囲気を残している。
公開されているのは安間家住宅で、江戸時代末期の天保元年(1830)にお徒士町一帯で火災があり、その後ほどなく建てられたと思われる。入り母屋造り茅葺きの曲屋形式の主屋と瓦葺きの土蔵があった。
町並み指数 60
参考文献       
  兵庫県の歴史散歩下   山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  丹波ぶらり散歩道  萩原勇治  梶尾文弥  平成6年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  ささやま風土記  篠山地方観光協会  平成元年 
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年             

河原町の商家

お徒士町の長屋門の家

河原町の町並み

お徒士町の武家屋敷

河原町の町並み

河原町の町並み
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