中世には日置荘が置かれていた場所で、日置村は明治22年、八上上・八上新・西荘・野々垣・上宿・井上・宮ノ前など20ヶ村が合併して生まれた村である。今の日置は江戸時代には、八上新村と称されていた所で、篠山城下町と福住集落との中間点、篠山街道(国道372号線)と攝津と結ぶ幹線道路(県道12号線)が交差する所に位置していたので江戸期以前から宿場町として機能していた。 八上新村は、もと豊臣氏蔵入り地。慶長7年(1602)八上藩領、慶長13年(1608)からは篠山藩領となる。 「丹波志」では286石余。「天保郷帳」には当村名が見えず、八上上村に含まれている。天明3年(1783)の篠山領内高並家数人数里数記では、家数58・人数247。「多紀郡明細記」によれば家数49・人数238。 古い町並は国道372号線と県道12号線の交差した辺りに展開し、同じ篠山市河原町妻入り商家群や福住の妻入り商家群と同様、妻入りの建物が連なる。 福住や河原町の妻入りより、同じ妻入りでも切り妻造りの要素が少なく入り母屋の要素が多いようで、白漆喰塗り込めの建物が少ないように思う。 伝統的な商家の建物は福住の方が多く見られた。 兵庫県の歴史散歩下 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名T 平凡社 平凡社地方資料センター 1999年 |
日置の町並 |
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