古市は篠山から播磨姫路に通じる街道が、古市で分かれて摂津大阪に向かう分岐点の、交通の要衝であり、古くから宿場町であった。 もと豊臣秀吉の蔵入り地であったが、天正15年(1587)から伊予国丸串城(愛媛県宇和島市)城主戸田勝隆領となり、文禄3年(1594)から豊臣秀吉蔵入り地。のち八上藩領、慶長13年(1608)からは篠山藩領で明治維新を迎える。 古くは春秋に丹後・但馬の牛を扱う市が立つ商業・交易の地であったが、中世に断絶、延宝元年(1673)に出願して復活し、六斎市が開かれ賑わったという(寛政6年丹波志)。宿場でもあり寛政10年(1798)まで大庄屋酒井三右衛門が本陣を勤めた。 天明3年(1783)の篠山領内高並家数人数里数記では古市組のうちで、家数60・人数279。 宝暦6年(1756)の「返答口上書」によると、江戸時代には福住・追入とともに多紀郡三駅で、交通の要衝として貞享3年(1686)駅場定法が出され、塩荷・魚荷および郡内産の茶は古市駅を必ず通すこととされた。 当地では古く平安期から茶の栽培が行われていた。これらの茶は宿場町古市を経て、摂津・播磨方面に出荷され、後に藩の専売制がとられた。 享和2年(1802)の菱屋平七長崎紀行に「古市の駅」と記載され、人家200軒ほどで、茶屋・宿屋が多く、駅中に観音巡礼道の追分があった。 明治16年の戸数73戸、(商家が59)・人数341であった。 今、古市の町並みを歩くと宿場町の名残が各所に色濃く残っている。旧街道に沿って、切り妻造り平入り、中2階建て虫籠窓の民家が続く。格子や出格子はさすがに少なくなり、窓ガラスやサッシュ窓に、虫籠窓もガラス窓に改装されているのが多いが、背の低い中2階建ての建物が 宿場町時代の景観を今に伝えている。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名 平凡社 下中直人 1999 |