福住は篠山城下から京都に向かう篠山街道筋の宿場町。江戸時代には本陣・脇本陣が置かれ、篠山藩や柏原藩の参勤交代の道として利用された。 篠山は畿内と西国を結ぶ交通の要衝であり、徳川幕府が政権の基礎を固めるために、もっとも重要な拠点とした。篠山城は慶長14年(1609)にほぼ完成し、家康の実子である松平康重が初代城主として入城した。慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣では、松平康重が篠山城から出陣したが、このときも篠山街道を通っていった。 この大坂の陣により徳川政権が安定した後、篠山城は西国大名を監視する役割を果たした。 当時、京都から因幡国・出雲国に向かうには、亀山(亀岡)まで進み、ここから西に進んで篠山を通って因幡・出雲に向かっていた。江戸も中期になってくると、山陰道と称される亀山(亀岡)から北西に向かい福知山を経由して因幡に向かう道の利用が多くなってくる。 福住はもと豊臣氏蔵入地で、慶長7年(1602)八上藩領、慶長13年(1608)からは篠山藩領。延享3年(1746)巡見使庄屋覚書では家数152軒・人数605人。天保9年(1838)巡見使庄屋覚書では家数138軒・人数533人。 篠山城大手門から東三里にあたり、一里塚が置かれていた。古市・追入とともに多紀郡三駅の一つで、寛延2年(1749)の多紀郡内伝馬宿覚書によると、馬数6疋が常備されていて、ここから少しで亀山藩領となる国境の宿場町であった。又、篠山藩の米蔵二・籾蔵(もみ)一も置かれていた。 今、福住に残る町並は篠山城下の河原町妻入商家群に匹敵する町並である。いやむしろ、河原町妻入商家群より間口が広く屋敷がゆったりした分だけ重厚な建物が多いようだ。 古い伝統的な家屋の建て方は、妻入りの中2階建て切り妻造り、漆喰塗り込めだが、表妻側に軒庇が付いた、一見入り母屋に見える丹波地方独特な商家の建物だ。中には軒庇が発達して棟になり、後ろから妻入りの棟が合体した撞木造りも見られた。 古い町並を構成する、造り酒屋や呉服店、醤油などの店も見られ、一里塚跡とともに宿場町だった面影が色濃く残る町並である。 不思議なのは、篠山市が全く町並保存に乗り出していないようで、案内板一つ立ってないのが気にかかる。折角国道372号線が近年町並の北側にバイパスとして設置されたのだから、せめて町並保存に向けて進んで欲しいものである。 兵庫県の歴史散歩下 山川出版社 兵庫県高等学校教育研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和63年 兵庫県の地名T 平凡社 平凡社地方資料センター 1999年 |
福住の町並 |
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