三田市の町並み 
三田町・屋敷町・相生町
(旧町名は本町・南町・北町・湯山町・新地・四ッ町・侍町・新町)
地図


三田町本町通りの町並み
 近年人口の伸び率では日本一を記録し続けた三田市。でも知名度は余り高くない。
城下町三田は藩政時代には陣屋を中心に侍屋敷や町人町が発達していた。
中世、金心寺の門前集落として発展していたところに、有馬氏の車瀬城(後の三田城)、天正初年(1573〜76位)荒木平太夫、天正8年(1580)から池田信輝の、天正10年(1582)から山崎堅家の三田城の城下町となり発展した。
関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)有馬則頼が三田城主となったが、翌年から福知山藩領となり城は取り壊され、その後幕府直轄領となる。寛永3年(1626)松平重直が3万石で三田に入り三田藩を立藩した。寛永10年(1633)志摩鳥羽の九鬼久隆が3万6000国で入封し、13代約240年にわたって、三田は九鬼氏の支配地となった。水軍でしられた九鬼氏を陸に閉じ込めたのは、関ヶ原の戦いで九鬼氏が西軍についたからだと云われている。
九鬼氏は城を造るのは許されず、陣屋・大蔵所・二の丸・評定所などを置いた。
城下町の建設は天正初年から荒木氏の手によって行われた。三田丘陵の突出部に車瀬城が築かれ、台上から低地にかけて金心寺の門前集落を利用して、城下町が開かれた。
三田藩の城下になると、大池(今の御池)を造り、その北側に陣屋、その北側の車瀬城跡が二の丸となって、大蔵所や評定所が造られた。二の丸の西側は家老屋敷など重臣の屋敷が、大池の西側には侍町(後の屋敷町)が置かれた。
三田は摂津国の米相場を決めるほどの米の集散地で、三田町には米仲買人がいて池田や灘の酒米、尼崎・大坂の糧米を扱った。
町人町は侍町と武庫川に挟まれた地域に置かれ、城下町の中を三筋の道路が通っていた。
町場は三田村内で万治元年(1658)に三田町分(本町・南町・北町)に分離し、この三田町は三田藩領の政治・経済・文化の中心地として推移した。
今 古い伝統的な商家の建物は三田町(本町筋や旧南町、旧本町、旧北町)に点在しているが、町並みと云えるほどは連続していない。江戸時代には豪商が本町に集中し、大きな平入りの商家の建物が連なっていたそうだ。
切り妻造り、中二階建て、平入り、本瓦葺き、虫籠窓、格子、出格子が一般的な商家の建物であったのであろうが、今は改築され、ガラス窓、桟瓦葺きになっているのが多かった。
本町の北の屋敷町には、旧藩主九鬼氏の旧住宅が資料館となっている。商家の建物と異なり、明治初期のハイカラな擬洋風の建物で、和風と洋風の入り混じった、一種異様な建物であった。
本町筋の中程に、関西学院大学の街角研究室の「ほんまちラボ」がある。その建物は神田惣兵衛旧宅で大規模な商家の建物であったが、その一部が残っているのみである。家業は米屋で、一夜にして万両の金を動かしたという豪商。また家業外に登り窯を築いて三田青磁の研究をはじめ、中国青磁をしのぐ製品を世に送り出した。今町並み保存・再生に取り組む拠点として活躍されている。
もう一つ、本町通りの朝野金物店の店先の一部が「鍵屋重兵衛資料館」になっていて、朝野久恵さんが朝野家の資料館であると共に、町並み保存・再生に取り組んでおられる。地区の住民を動かして町並み再生まで進むと良いのにと願わずにはいられなかった。
町並み指数  40
参考文献       
  兵庫県の歴史散歩上  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年
  兵庫県の知名T  平凡社  下中直人  1999年        

本町通りの商家

屋敷町の旧藩主九鬼住宅

三田町(旧北町)の町並み

三田町(旧北町)の町並み

南ヶ丘一丁目(旧三田村)の町並み

三田町(旧南町)の町並み
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