赤穂市坂越の町並み
坂越
地図


坂越大道に沿った町並み

  坂越は赤穂城下より歴史が古く、この地方の中心であった。それは天然の良港をもつ坂越浦のためだ。
つまり坂越は忠臣蔵の浅野家以前の、赤穂の歴史の表舞台を担った重要な場所だった。この地に集落が形成され始めたのは古代以前と思われるが、史料に坂越の名が登場するのは中世以後からである。
室町時代には赤松氏が守護大名としてこの地を支配していた。文安2年(1445)に坂越の船が鰯、海鼠を積んで兵庫北関を通関しているから、坂越浦は漁業も盛んであったと思われる。
羽柴秀吉の中国征伐(1577)により赤松政範らが滅ぶが、16世紀に入ってから坂越は内海航路の中継地として重要な役割を占めるようになり、とりわけ寛文年間(1661〜72)に開設された西廻り航路の発展とともに、坂越浦も賑わいをみせ瀬戸内海有数の廻船業地となった。木綿、紙、古手などを仕入れて、西国(肥前など)や北国(出羽など)へ下って売却した後、現地で米を購入して、大坂、堺へ輸送していた。
ところが18世紀末ごろから、日本海運の繁栄を背景に大型の北前船が台頭し、北国産物輸送の主導権を奪われていった。坂越廻船業者の中には経営不振に陥るものもあったが、寛政年間(1789〜1801)以降、赤穂塩を買いつけて、江戸をはじめとして各地の塩問屋へ、廻漕する塩廻船へと転換して多くの利益をあげていった。即ち、坂越浦廻船は運賃積み廻船としてではなく、物資の販売をも兼ねた買積み廻船として活躍していた。
坂越村は慶長5年(1600)姫路藩領、慶長18年(1613)岡山藩領、元和元年(1615)赤穂藩領、元禄14年(1701)幕府領、元禄15年(1702)からは赤穂藩領で明治を向える。
宝永3年(1706)の御領分村々指出帳によると、百姓家数335軒、天保9年(1838)の御領分村々諸事覚では、家数634軒・人数2315人であった。
坂越の伝統的な古い町並みは海岸線に沿った400m位のところと、その中程の旧坂越浦会所から坂を登って千種川の方へ進む坂越大道の両側に並んでいる。
旧坂越浦会所の左右それぞれ200m位の海に面した家屋は、どの家も入り母屋造りか切り妻造りの本瓦葺の二階建て、平入りの大きな主屋と土蔵を持ち、海に面した前面に庭を造り、門や板塀を持った家並みであり、特に旧坂越浦会所の右側(東側)は高潮や高波への対策から、通りより石垣を積んで1mほど高い位置に宅地を造成しており、この通りの特徴となっていて、坂越浦を代表する景観である。
旧坂越浦会所は天保2年(1831)に建築されたもので、以来明治にかけて坂越村の会所として使用されると同時に、赤穂藩主の茶屋的機能を合わせ持っており、藩主の専用の部屋「観海楼」から目の前に見える生島樹林の眺望はその名のとおり秀逸であった。
旧坂越浦会所より坂越大道を千種川に向かって坂を登ると、両側に古い伝統的な商家の建物が連なる。そんな中に奥藤家の本家がある。大庄屋、船手庄屋を務め、廻船業で財をなし、寛文年間(1661〜1673)に建てられ、複雑な平面をもつ大規模な入り母屋造りの建物で、主屋はL字型になっていて、道に面しているところは入り母屋造りの妻入りの中二階建て、本瓦ふき、黒壁に白漆喰の虫籠窓、千本格子、くぐり戸の付いた大戸で、この建物に直角に交わった大きな主屋の部分も同じ建てかたであり、棟の上に煙り出しが付いていた。
奥藤家は慶長6年(1601)に酒造業をはじめ、その後金融業、廻船業へと事業を拡大した。明治の初めより赤穂塩の買積をはじめて、赤穂塩の発展とともに大きな利益を上げ、今でも酒造だけは続いていた。  
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参考文献    
  兵庫県の歴史散歩下  山川出版社  兵庫県高等学校教育研究会  1996年
  坂越廻船と奥籐家  赤穂市立歴史博物館  平成6年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和63年

奥籐酒造の酒蔵
 
旧坂越浦会所

海岸に沿った町並み

坂越大道に沿った民家

奥藤酒造前の町並

奥藤酒造の板塀と
大道井と云われた井戸枠の石
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