堺市の西高野街道に沿って僅かに残る古い町並を訪ねた。西高野街道とは京都から高野山に向かう参詣道の一つで、東高野街道、中高野街道、西高野街道があった。 東高野街道は京都から南に下り生駒山の西麓を通り河内長野・紀見峠を越えて高野山へむかった道。 西高野街道は京都から大阪天神橋まで淀川を船で下り、高麗橋、堺の大小路を経て今の国道310号線に沿って南下し、河内長野で東高野街道と合流する道。中高野街道は東・西高野街道の中間の街道として、守口文禄堤に発する道で、やはり河内長野で他の街道と合流して高野山に向った。 このように東高野街道・中高野街道・西高野街道と呼ばれるようになったのは明治に入ってからで、それまでは高野道と呼ばれていた。 今回訪ねたのは堺市百舌鳥(モズ)梅北町・中百舌鳥町の西高野街道沿いの町並です。江戸時代には万代(モズ)赤畑村・万代金口村・万代東村と呼ばれていたところである。 この西高野街道は平安時代には上皇や公家たちが参詣道として通ったことにより発達し、南北朝時代には軍事道路として、さらに時代が進むと通商ルートとして活用された道である。 江戸時代それぞれの村の様子は、万代赤畑村は文久元年(1861)では家数92・人数443であって、農業主体で米作の他に木綿栽培、栗・稗・大豆・蕎麦などが作られていた。又村内には農業以外のものも多く見られ、米穀商・酒小売・くだもの小売・大工・野菜売り・風呂屋など30%以上が農業以外であった。 万代金口村は天保11年(1840)では家数77・人数363であって、この村の農業は木綿作が盛んで作付けの約4割を占めていた。万代東村は天保11年(1840)では家数81・人数406であって、この村も木綿作が盛んで作付けの4割を占めていた。 こうして見ると、堺近郊の農村地帯の様相で、高野道が村内を通っていただけの通過集落であることが判る。 でも、あまり広くない道に古い家並みや自然に湾曲した道路、石碑や常夜灯などが点在し、歴史ある街道であることが容易に理解できる。 この近くに国の重要文化財に指定された高林家住宅があるのだが、周りを白壁で囲まれ常時公開された施設でないので、写真は撮れなかった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名編纂委員会 昭和58年 大阪府の地名U 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1986年 |
百舌鳥梅北町の町並 |
百舌鳥梅北町の町並 |
百舌鳥梅北町の町並 |
百舌鳥梅北町の町並 |
中百舌鳥町の町並 |
中百舌鳥町の町並 |