古くからこの地は和泉から四国・淡路島へ渡る湊として栄え、天正13年(1585)の豊臣秀吉の四国平定の出陣の際には、豊臣秀長が当地土豪吉田源右衛門源房家の泊まり、その後四国に渡ったという。 江戸時代の尾崎村は、はじめ和歌山城代桑山重晴、のちその孫の谷川藩桑山清晴領、慶長14年(1609)大和御所藩桑山元晴領になり、寛永6年(1629)幕府領となる。天明元年(1781)遠江相良藩領となり、同7年()幕府領。天保11年(1840)から岸和田藩預地。文久元年(1861)から下総国関宿藩領となり、同2年幕府領。慶応元年(1865)陸奥会津藩主で京都守護松平容保領となり幕末に至った。 江戸時代に入ると、紀州街道を辿る人数も増え、紀州徳川家が成立すると、参勤交代の道筋になったほか、諸業の往還もおおくなり活況を呈した。 元禄初年の「泉州志補遺」によると、農産物として米のほか木綿・菜種などがつくられ、特に木綿が全作付面積の4割、菜種が2割を占め商品作物栽培が進んでいた。また漁業も盛んで干鰯が多くとれた。 明治7年の一村限調帳によると、尾崎村の戸数505軒・人数2,238人。緑町・西之町・宮ノ前町・紺屋町・八坂町・呉場町・中之町・寺ノ町・佐渡屋ノ町・札之町・戎之町・中北町・北之町・新地の各町が成立していた。 このように町場の発達や盛んな漁業からも伺えるように、農業以外の人々が多く居住していたことが伺える。 今でも旧紀州街道に沿って古い町並みが展開する。殆どの家が仕舞屋になっているが、街道当時の面影は各所に残っている。切り妻造りまたは入り母屋造り、中2階建ての伝統的な家屋が連なる。どっしりとした本瓦葺きの重厚な商家の建物は、時代を経た今でも威圧感をもって、我々見ているようである。 瀬戸内から大阪湾を取り巻くこの辺り、そしてもっと南に下がった辺りにも、本瓦葺の家屋が多く残っている。もともとは台風に対応した瓦だったのだろうが、この本瓦で葺かれた家を見ると、重量感があり、安心感をともなうように思う。 大阪府の地名U 平凡社 平凡社地方資料センター 1986年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58 大阪府の歴史散歩 山川出版社 大阪府歴史散歩編集委員会 1990年 |
尾崎二丁目の町並み |
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