大阪市福島区野田の町並  
福島区野田三丁目・二丁目、福島区吉野三丁目
地図


野田三丁目の町並み
 旧野田村のこの地は、今の淀川水系とは異なり、淀川下流の右岸と淀川支流の中津川左岸に挟まれ、商都大坂の西北部にあたり、その直接的な影響を受けることなく、近郊の水郷名勝地として親しまれていた。
当時の中津川左岸は近世においても多くの池沼が残る低地で、僅かの雨でも被害を受ける地域であった。
淀川は下福島村の近くで堂島川と土佐堀川が合流したあと再び二流となり、一方は木津川・尻無川として九条島に沿って東南に流れ、もう一方は西に曲流れて伝法川となり海へ流れていたため、排水が悪かった。
貞享元年(1684)河村瑞賢が九条島を掘って河道を真っ直ぐに大阪湾に通した。これが安治川である。明治29年からの淀川大改修で中津川流域に新淀川が開削された。このため海老江村の北部90町余りが新淀川の河床となった。
野田村の戦国時代は三好三人衆が陣取り、織田信長に対峙したことが知られていて、石山本願寺攻略などで度々戦火に巻き込まれている。
江戸時代は元和元年(1615)大坂藩松平氏領、元和5年(1619)からは幕府領のまま明治を迎えている。海に近かったため、漁業従事者がおおく、、安永6年(1777)代官から漁船への極印(鑑札)47枚を下付されていた。
享和年間には村内に鰯漁を手広く営む網屋宗右衛門というものが、常時50人を雇用していたという。
明治9年の人数1,601人。大阪市に近く堂島川の水路を利用する運輸が利便なため、紡績・工業などの工場が誘致され発展を見せた。
福島区は太平洋戦争による被災は少なく、約7割は戦災に合わなかったので、古い家並みが残り庶民的人情も失われていない。今、町並みを歩くと、古い町並みの所々や大きな通りに沿ってマンションが建ってはいるが、幹線道路から一歩町並みに入ると、大正から昭和初期の光景が現れる。建物は殆どが大正から昭和はじめにかけて建てられたもののようだが、人情味あふれる下町風景が展開していた。
町並み指数  40
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58年
  大阪府の地名T  平凡社  平凡社地方資料センター  1986年   


野田三丁目の町並み

野田三丁目の町並み

野田二丁目の町並み
都会の真ん中にこのような家が戦災で
焼けずに残っていた

吉野三丁目の町並み

吉野三丁目の町並み

吉野三丁目の町並み
石畳のこの光景だけを見ると大都会の真ん
中とは思えない

野田二丁目の町並

野田二丁目の町並

野田二丁目の町並

野田二丁目の町並

野田二丁目の町並

野田二丁目の町並
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