今回訪ねた新今里三丁目辺りは、江戸から明治・大正にかけては中川村や中川町といい、新今里1丁目〜8丁目になったのは昭和15年からである。 中川村は上町台地の東側で、長瀬川(旧大和川)と平野川に挟まれた氾濫原中に位置していた。地名は平野川の支流の中の川と呼ばれる細流にちなむそうだ。 この地は平坦地で低地が多く、古来より洪水の被害を被っていたという。かっては沼沢地であったと思われる地域である。 明治9年の人数は532人、明治22年の家数80・人数550。 この湿地が開発されたのは、大正14年に遊郭整理問題が再燃し、新たな遊郭地として指定されたことにより今里新地が開発される発端になったのです。当時この辺りの土地を所有していた大阪電気鉄道(今の近鉄)が子会社を作って開発に当たり区画整理からはじめたのです。そして昭和4年に芸妓13人で開業をはじめたものです。 こうした理由で新今里1丁目〜7丁目の区域だけ道路が碁盤目状になっているのです。そして第2次太平洋戦争の戦災での被害は少なく、多くが焼け残ったため、飛田新地や松島新地の娼妓や芸妓がここに流れ込み、一気に賑わったが、売春防止法の成立で営業形態は変りましたが今でも現役の花街です。 今町並を歩くと、整然とした区画に区切られた住宅街区が現れる。新今里3丁目の西側部分には昭和初期から戦前に建ったと思われる大阪様式の看板建築(大阪式長屋建て借家)が建ち並んでいる。一般に古い町並といっても探して探して撮影するのですが、ここ新今里3丁目では探さなくとも、左を見ても右を見ても看板形式の町屋ばかりが並び、よく焼けなかったなあと感心する。 そして東に行くにつれて、呑み屋や居酒屋・料亭の看板が目立つようになるが、建物は西側と同じようで、やはり昭和初期に建ったような家屋が多い。しかし東に行くに従って花街の様相が顕著になり建物の装飾が派手になって行くのが判り、なかなか面白い移り変わりが見られるところだ。 大阪府の地名U 平凡社 平凡社地方資料センター 1986年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58 |
新今里3丁目の町並 |
新今里3丁目の町並 |
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