大阪市営下寺住宅 
浪速区下寺2丁目
地図


市営下寺住宅(軍艦アパート)
 新聞記事から思い立って、取り壊しの決まった大阪市の軍艦アパートを訪ねた。
昭和5年完成のこの市営下寺住宅は軍艦アパートの名で市民に親しまれていた。訪ねたのは平成18年の3月に入ってからで、多くのカメラマンが取り壊される前に写真を撮っておこうとカメラを構えていた。もう既に全戸引っ越された後で、カメラマンや最後の姿を見ようとやってきた人ばかりだった。以下新聞記事を転記する。

築75年、独特の外観から「軍艦アパート」の異名で知られる大阪市営の「下寺住宅」(大阪市浪速区)が、06年度中に取り壊されることになった。2月末までに住民全員が引っ越す。大阪市によると、現存する最古の鉄筋公営住宅。建設当時、最先端を誇ったが、老朽化には勝てず、ナニワの人情を育んだ「昭和の面影」がまたひとつ姿を消す。
 下寺住宅は1931(昭和6)年、満州事変が起きた年に完成した。大阪市が30年代に、浪速区内につくった三つの近代的アパート群のひとつで、屋上に並んだかまど用の煙突から煙が立ち上る姿から、いずれも「軍艦アパート」と呼ばれた。下寺以外の、南日東、北日東住宅は01、02年に相次いで壊され、最後に残ったのが下寺住宅だった。
 下寺住宅は約7100平方メートルの敷地に鉄筋3階建ての8棟が立つ。水洗トイレや上層階からごみを捨てるダストシュートが完備され、建設当時の大阪朝日新聞は「堂々たるモダニズム」と報じた。
 間取りは4.5畳と3畳の居間に台所、トイレを加えた「2K」タイプ(約30平方メートル)が多く、風呂はない。現在の家賃は1カ月200〜300円台。木材やトタンを使い、ベランダに1、2畳の部屋を増築している世帯が多い。「出家(でや)」と呼ばれ、子どもが増えて手狭になった家庭の工夫だ。
 45年の大阪大空襲でも焼失を免れたが、老朽化には勝てなかった。屋上の塗装ははげ、雨漏りがひどい。さびた給水管から水が漏れ、台所の壁の一部がはがれ落ちている部屋もある。
 下寺住宅に住む約190世帯(昨年12月末現在)は、区内の新築の14階建て市営住宅に移り住む。跡地の利用方法はまだ決まっていない。
 1月末、住み慣れた我が家を離れた本田美代子さん(73)が産声を上げたのも、ここ軍艦アパートだった。アパートの1階で駄菓子屋を営んでいた実家は、近所の子どもたちでいつもにぎやかだった。37歳で近所の幼なじみだった末治さん(74)と結婚し、別棟に移った。
 「ご近所とは困ったことがあったら助け合える心やすさと人情があった」と美代子さん。「古くなった壁にも生活のにおいや温かさが染み込んでいる。寂しいですわ」
 下寺住宅自治会長の佐々木利秋さん(73)もここで生まれ育った。8人きょうだいの次男。「戦前や戦争直後はたくさんの子どもが住んでいた。路地を走り回ったり笑い声が聞こえたり、それは活気があった」と、当時を懐かしむ。
 大阪市は取り壊し前に学術調査に入り、棟の配置や部屋の間取りなどを図面や写真で記録保存することにしている。
 戦前からの鉄筋の集合住宅としては東京・表参道の顔として親しまれてきた同潤会青山アパートが有名。下寺住宅より4年早い27年に完成したが、03年8月に取り壊され、今月、「表参道ヒルズ」に生まれ変わった。海底炭坑の廃虚が残る長崎市沖の端島(通称・軍艦島)の高層集合住宅(16年完成)は、閉山した無人島に今も残る。地元では世界遺産登録を目指す動きもある。以上朝日新聞

大阪市浪速区、市営下寺住宅。通称「軍艦アパート」に、夕日が差し込み始めた。
 壁がはがれた階段の踊り場から中庭をのぞく。各階の窓側から張り出す小屋は、住民がトタンや木材で増築したものだ。張り巡らされた電線の下から、お年寄りの声が聞こえてきた。
 「あんたんとこ、片付けはもう済んだんか」「来週、引っ越しや」
 公営住宅は日本の近代化とともに普及した。低所得者対策、人口増による住宅不足など時代の要請を背景に、木造から鉄筋へ、さらに高層化した。今でこそ、市営住宅は2126棟を数えるが、戦前は希少だった。
 「でき上つた 下寺町御殿」(大阪毎日新聞、昭和5年11月28日付)。完成間近の団地を新聞は華々しい見出しで伝えた。木造長屋がひしめく一帯に出現した鉄筋住宅は、羨望(せんぼう)の的となった。部屋は2Kで、水道、ガス、水洗トイレ、ダストシューターや児童遊技場もある。加えて、「最高が月10円10銭、最低6円90銭といふべらぼうなやすさ」。庶民にも手の届きそうな夢の家だったに違いない。
 最後の自治会長、佐々木利秋さん(73)は「産めよ増やせよの時代。そら、にぎやかだった」と往時を懐かしむ。8人兄弟の二男。父は物干し場を建て増しして寝場所にした。中庭でチャンバラをし、夏には屋上から花火を見た。酒を飲む時、中庭で声を響かせれば5、6人は集まった。「隣近所は家族同然やった」。中庭にはいつしか稲荷神社ができた。
 大家族の一家は部屋の一部を取っ払って広げ、店舗に改修して商売を始める人もいた。戦後の復興で時代の豊かさが追い越していっても離れたがらない住民が多かった。
 「あっこで生きる強さを身につけた」。たばこ屋を40年営んだ笠原ミサ子さん(67)は言う。閉店後も自転車にカートンを積んで市内のホテルを走り回り、女手一つで息子を大学にやった。この1月末、近くに店を移したが、なじみ客は変わらず訪ねてくれる。
 佐々木さんも「ここではぐくまれた絆(きずな)と人情が、消えることはない」と思っている。 
 日が暮れた。
 中庭に立ってみる。窓からこぼれる明かりは、もうまばらだ。
 下寺住宅の跡地利用はまだ決まってはいないが、そこに暮らす最後の一人が去ったとき、軍艦アパートの長い「戦後」も終わる。  以上読売新聞  写真・上田 尚紀 文・中西 賢司(2006年02月09日 読売新聞)

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