大阪市野江・成育辺りの町並み
野江3〜4丁目・内代1〜2丁目・成育3〜5丁目
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城東区野江3丁目の町並
 大阪市内の上町台地の東側は縄文時代には河内潟、弥生時代後期には河内湖となったが、今の城東区辺りは未だ水没していた低地である。当時は水上交通が盛んであったと推測されます。
今、大和川は柏原市国分辺りから西方に流れて堺市の北を経て大阪湾に注いでいますが、宝永元年(1704)までは、大阪上町台地の東側を北流して、上町台地の北端大阪城の北側で淀川と合流し西に流れて大阪湾に注いでいました。
そのため、上町台地の東側は排水が悪く低湿地であった。古代より、幾多の河川改修や付け替えが行われてきたが、上流から流れてきて堆積する土砂のため水害に悩まされ続けた。野江4丁目にある水神社(野江神社)付近は僅かに高く、水難除去のためにこの地で榎並城築城時に三好政長が弥都波能売神を祀ったという。
野江村の西端を京街道(東海道)が通り、集落は街道に沿って形成されていた。
享保13年(1728)の家数は95・人数516とある。大和川付け替え後、大規模な洪水被害からは免れたが、低湿地には変わりなく、野江村はこの地域でも有数の水損地で、享保10年(1725)から10年間の覚定書によると、享保13年から同17年、同19年はほぼ半作、享保10年は一部作である。これらは水害によるものであるが、同18年西日本の干ばつ被害にも拘らず8分作であったのは低湿地であったことによると思われる。
低湿地である為水稲以外では、蒲穂・蓮などを産出し、裏作として菜種の栽培が盛んで、アヒルの飼育も行われていた。
明治中期以降は京街道筋に集合馬車が、明治43年京阪電車が開通し野江駅が設置されてから,住宅地・工業地が混在して市街化が進んだ。
今回訪ねた所は、旧京街道(旧国道一号線)より東側の旧野江村で、明治・大正・昭和初期に建てられた家屋が並ぶ町並です。太平洋戦争の戦災に合わなかったところを選んで訪ねたのです。大阪市内は全て焼けてしまったと思われがちですが、都市中心部はダメでも周辺部になれば結構戦災に合っていない部分があります。この旧野江村もその一つです。
野江3丁目で地下鉄内代駅の東側辺りには、戦災に合わず、江戸時代の町割りと家屋が残る地域があったのでビックリです。そして北部の成育辺りは昭和初期に建てられた大阪様式の看板建築が並ぶ地域があり、この辺りは焼けなかったのだなあと実感しました。
町並み指数  30
参考文献
   大阪府の地名U  平凡社  平凡社地方資料センター  1986年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58


城東区野江3丁目の町並

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