大阪市九条・本田辺りの町並み
九条2丁目・九条3丁目・本田4丁目
地図


九条三丁目の町並
 天正11年(1583)以降、豊臣秀吉の大阪城築城に伴って城下町が成立し、海と城下を結ぶ位置を占めていた西区一帯が開発されだした。
西横堀川・阿波堀川・道頓堀川・江戸堀川・京町堀川・海部堀川・長堀川・立売堀川・薩摩堀川など江戸初期の寛永年間(1624〜44)までに、町人らの尽力により各地に堀川が開削されて水の都の基盤は確立された。
今回訪ねた九条辺りは、江戸時代初期まで九条島と呼ばれた荒地であった。その後この九条島も開発 (開発者の断定は定かでない) されたが、結果淀川の流れを悪くしたため、天和3年(1683)幕命により河村瑞賢が九条島を掘割り、土佐堀川・曽根崎川・堂島川の水を集めて、一直線に大阪湾に導く安治川を完成させた。この結果、洪水の被害を減少させたと共に、廻船の出入が楽になり、安治川口は木津川口とともに大坂の門戸として益々重要な所となった。
分断された九条島は様相が一変し、九条村の安治川以北は西九条(現此花区)と呼ばれるようになり、南側は九条・本田と呼ばれ現在は西区になっている。
安治川・木津川両河口における船舶の出入は「諸国の商船常に碇泊し、両河口よりして市中縦横に通船の川路あり」とか「出船千艘・入船千艘」などと表現され、17世紀後半から、諸国の物産は次々と当地を基点にしたり、通過したりして市中に運び込まれた。廻船によって運びこまれた諸国の物産は、更に小さな川船に積みかえられて、市中各堀川の各種の問屋や諸藩の蔵屋敷に移送され「天下の台所」大坂の経済をささえた。
明治7年江之子島に本格的西洋建築の大阪府庁が完成し、大正15年に現府庁に移転するまで「江之子島政府」と呼ばれ大阪府政の中心となっていた。
その後、産業構造の変化や新淀川の開削、大阪築港などによって西区のこの辺りの経済的地位が低下し、行政的にも当地の重要性が失われて行った。
現在は中小企業と市街地住宅を中心とした地域となっている。
この地を訪ねたのは、戦災で焼け残った地域を探し訪ねたもので、戦前の大阪の姿を残している貴重な地域であった。中には江戸時代から明治にかけて建てられたと思われる建物もあったが、戦災で焼けなかった町屋の殆どは、昭和初期に建てられた二階庇部分を漆喰で多段に塗り固めた様式の長屋形式の家屋だ。大阪に多い建築様式だが、なんと云う形式か知らないのでうまく表現ができない。
本田4丁目・九条3丁目を中心に戦災を無事乗り越えた地域が多く在る。現在まで建て替えられることも無く残っているのは貴重な文化遺産と思うが、住んでいる人は必ずそうは思っておられない。この辺りのギャップが建て替えの要因だろうと思う。
兎も角、この九条や本田辺りには古い町屋が多数に残り、中小企業や庶民の住宅が建ち並ぶ町並だった。
町並み指数  40
参考文献
   大阪府の地名U  平凡社  平凡社地方資料センター  1986年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58


九条二丁目の町並

九条二丁目の町並

九条二丁目の町並

本田四丁目の町並

本田四丁目の町並

本田四丁目の町並

本田四丁目の町並

九条三丁目の町並

九条三丁目の町並

九条三丁目の町並
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