大阪市北区(旧大淀区)中津3丁目。大阪の都心部のすぐ裏手に位置し、廻りの高層ビル群がら見下ろされてる。不思議に戦災にあわず、この一画だけが開発からも免れ、今でも長屋と路地が町並みを構成している。 江戸時代には光立寺村といい、村の東部を能勢街道(池田道)が南北に通り、中央部を大坂より十三渡しに至る道があった。集落は能勢街道沿いに光立寺集落、中津川南岸に城集落、十三渡しへの道沿いに新家集落があった。 新淀川の改修工事で無くなった中津川南岸にあったから、近世から明治にかけて度々洪水に見舞われ甚大な被害を出している。 家数・人数は天明8年(1788)109・551、安政5年(1858)164・783、明治9年231・1,028と急激な人口増加を示している。 明治29年から始まった淀川改修工事は、当地に大きな影響を与え、長年の洪水渦は免れたが、光立寺集落は半分以上の52町歩もの土地が買収され、222戸が移転すると云う大変化だった。しかし産業立地条件の整備に伴い、大阪市北郊の工場地帯をして急速な発展を遂げることとなった。 そして明治22年に中津村となり、大正14年に大阪市東淀川区に編入された。そして昭和18年に大淀区になり、平成元年から北区の区域に含まれた。 今回訪ねた中津3丁目の辺りは、第2次大戦での戦災を受けてない地域で、昔ながらの長屋や路地風景が残る地域である。特別古い家屋が残るわけでもないが、棟続きの長屋建物が構成する町並みである。 今の建築基準から見ると、防災面では不安が付きまとうが、長屋のよしみで人情味に富んだ町並みだろうと思いながらの探索であった。 大阪府の地名T 平凡社 平凡社地方資料センター 1986年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58 |
中津3丁目の町並み |
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