鶴橋1丁目から5丁目は生野区の最北西に位置し、鶴橋の名前は終戦直後に闇市があったところとして全国に知られている。 生野区は中世頃までは南西部の我孫子高台をのぞく大半は入江か沼沢地であったと思われる。その後、平野川水系などを通じて運ばれる土砂によって、徐々に陸地化が進行して行ったようだ。 近世においても殆どが農地であったが、東部の片江・中川村付近は依然として低湿地であり、洪水の常襲地帯であった。 江戸時代、今の鶴橋1丁目から3丁目にかけては木野村の一部で、その東側に旧平野川がありその東側は猪飼野村で今の鶴橋3丁目から鶴橋5丁目にあたる。 木野村の集落は旧平野川の自然堤防上に形成され、中世から荏胡麻油商の拠点として有名であった。南北朝期には既に木村座を結成して、奈良南都への積極的な販売を推進したために、本座の符坂油座との間に紛争が起こっている。元和元年(1615)から同5年までは大坂藩領であったが、寛永〜正保期(1624〜48)には幕府領、天和3年(1683)では幕府領、元禄郷帳でも幕府領であった。 猪飼野村は北流する平野川を挟んで木野村の東に位置し、中心集落は北ノ町・南ノ町などの字名が残る。 明治期に入っても生野区の東部は米麦をはじめ綿・菜種などの農業生産が中心の農村であり、西部は明治20年代の湊町ー奈良間の鉄道(現在のJR関西本線)及び城東線(現在の環状線)の開通により、宅地化や商工業の発展がみられ都市化現象が進んだ。 しかし、旧平野川と猫間川の氾濫が多かったので、大正8年から平野川の改修工事がはじまった。朝鮮半島から多くの労働者が強制的に徴用され改修工事に従事させられた。工事が終わってもこれらの労働者がこの地に留まったために、現在でも生野区・東成区に住む、韓国人や朝鮮人の人口密度が全国的にも最高と云われている。 JR鶴橋駅と近鉄大阪線鶴橋駅の周りの鶴橋商店街は広大な敷地の中に無数の商店が入っている巨大な市場である。細い通路に商品を一杯並べ、人の通行もまま成らない状態の商店街である。 その商店街を外れると、東に鶴橋2丁目・3丁目・4丁目・5丁目の町並が現れ平野川がある。この平野川は昭和11年からはじまった平野川直線化改修工事によって出現した平野川である。 鶴橋1丁目から5丁目にかけては、大きな敷地の大型の家屋は殆ど見られず、庶民大衆の町と言う印象が強い町並である。 中には昭和初期に建てられたような家屋もあるが、殆どは太平洋戦争後の建物であり、住宅と中小工場が押し合いへし合いしながら並んでいる町並であった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 大阪府の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1986年 |
鶴橋1丁目の町並 |
鶴橋1丁目の町並 |
鶴橋2丁目の町並 |
鶴橋4丁目の町並 |
鶴橋4丁目の町並 |
鶴橋4丁目の町並 |
鶴橋4丁目の町並 |
鶴橋5丁目の町並 |
鶴橋5丁目の町並 |
鶴橋4丁目の町並 |