池田は戦国末期、この地に君臨していた池田氏が滅亡し、政治的・軍事的な性格が無くなり、その後商業の中心地として発展した町である。 領主の変遷は複雑で、幕府領と旗本領の繰り返しに明け暮れている。家数・人数は元禄10年(1697)の村絵図によると家数1,571人。安永9年(1780)には家数2,180。明治9年の人数は5,226人とある。 池田村は大阪高麗橋(大阪市中央区)から道程5里といわれ、能勢街道筋にあたり、村の南を西国街道が通るという交通の要衝にあり、その他に湯治の道の有馬道・巡礼道の中山道・亀岡への余野街道が通っていた。このため北部山間集落の諸物資の集散地として発展した。 近郷で生産された米・木綿を原料とした池田酒・池田木綿や北部山間部で焼かれた炭は池田炭として有名であった。まず酒造業は応仁年間(1467〜69)万願寺村(現川西市)から池田に移って酒造業を営んだ万願寺屋に始まると云われている。明暦4年(1658)には酒仲間と称する酒造株が42株であったが、元禄期には63株に増加し、酒造戸数は38を数え万願寺酒として江戸でも珍重されていた。しかし江戸後期になると酒造主生産地は伊丹・灘地方に移り、池田は後退し酒造軒数も減少し、文政12年(1829)17軒、天保3年(1832)11軒、元治2年(1865)には10軒となってしまった。本町筋が酒造の中心であった。 池田炭は能勢一帯で生産されるものが池田に集まって池田炭として各地に出荷されたもので、切り口が菊花状になる外観の美しいものが生産され珍重された。炭屋・炭商は新町筋に集中していた。そして各種の問屋は中之町筋にを中心に問屋街を形成していた。 木綿は周辺農村の商品生産の対象として広がり発展した。元禄10年(1697)の村絵図では木綿関係の商人は4戸しか見られないが、宝暦7年(1757)には繰綿中問屋株6、繰綿屋株70の株申請が出されている。 細河谷における植木栽培は、酒造業の衰退に相応して発展し、池田の植木の名声を博するようになり、現代でも受け継がれて発展を続けている。 町並の発展は最も早く町場化したのは能勢街道に沿った本町筋で、本町筋が北に折れ猪名川べりに続く能勢街道沿いにも町家が出来たのが中之町である。その後に同じく能勢街道沿いの伊居太神社の社領地が町場化されたのが新町である。そして池田はこれらの町を中心として三角形を形付ける本町筋・中之町筋・新町筋の三筋を中心に発展していった。 今古い町並みは旧能勢街道沿いの中之町筋や新町筋に残っていて、これと云った連続した町並はないが、所々に伝統的な商家の建物が残っている。旧能勢街道沿いに造り酒屋も健在で、黒板壁の酒蔵が印象的である。残念なことに一番最初に町場化した本町筋は、今は商店街になってしまいアーケードに覆われ、町家も建て替えられ古い伝統的な商家の建物は見当たらないようだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名編纂委員会 昭和58年 大阪府の地名U 平凡社 (有)平凡社地方資料センター 1986年 大阪府の歴史散歩上 山川出版社 大阪府の歴史散歩編集委員会 1990年 |
綾羽二丁目の町並 |
綾羽二丁目の町並 |
綾羽二丁目の町並 |
綾羽二丁目の町並 |
綾羽二丁目の町並 |
綾羽一丁目の町並 |
綾羽一丁目の町並 |
綾羽一丁目の造り酒屋 |
綾羽一丁目の酒蔵 |