平野の町並み
平野本町・流町・平野上町・西脇・平野宮町・平野西
地図


平野本町三丁目の町並

大阪市の南東部の端に位置する平野は江戸から明治、大正期などの建物を残す歴史ある町である。江戸時代大和川のつけ替えによって、隆盛した河内木綿の集散地として繁栄した。
秀吉は石山本願寺を中心に寺内町が造られていた跡に、大坂城を築き、周囲を寺や町で囲んで、大坂を壮大な城下町に仕上げた。当時の平野の地は、堺と並んで最も商業が発達していたから、平野の富商達を天王寺に移転を命じている。
 戦国時代、平野は堺と並ぶ自治都市で、集落の周りを堀で囲んだ環濠集落であった。集落の出入口13ヶ所に設けられた木戸から各地への街道が通じ、交通の要地であった。
当地は中世以来南蛮貿易に活躍した末吉氏の居住地で、同氏と信長・秀吉・家康など時の為政者との結びつきが強かった。大坂の陣(1614〜15)のとき、平野郷は豊臣・徳川両軍の軍事拠点として争奪するところとなり、兵火でほとんど焼失した。
戦後、末吉勘兵衛の子 吉安は家康の命により町割りを行い、碁盤目状の町並を造った。また末吉氏は慶長9年(1604)頃から海外渡航禁止令の出る寛永12年(1635)まで、朱印船「末吉丸」で呂宋(フイりピン)・暹羅(タイ)・東京(べトナム)などとの貿易交流を深めた。
江戸時代の当地の支配は、はじめ幕府領だったが、元禄7年(1694)から武庫川越藩領にはじまり、上野高崎藩領、幕府領、下総古川藩領となり、明治維新を向えた。
杭全神社東側にある杓子型の池と南の平野公園内の松山池は、その環濠の跡といわれ、宝暦13年(1763)作成の「攝州平野大絵図」に描かれた杭全神社は、環濠に囲まれて郷より北に突出し、完全に聖域として独立している。
杭全神社の南に河骨池口地蔵があり、そこから東側はかっては環濠で、ここがこの堀と平野川とが通ずるところで、「船入り」あるいは「市の浜」といわれた。寛永13年(1636)から明治40年まで、平野川を経て、大坂天満に荷物を運ぶ「柏原船の船着場」であった。酒・飴・茶柄杓・繰綿・こんにゃく・荷馬の鞍などの平野の産物を大坂に送り、平野へは米や干鰯などの綿作用肥料を運んで、平野の発展を支えた。
平野では今、町ぐるみで組織する「町づくり博物館」という企画を立ち上げて、平野に点在する社寺や町家、和菓子店、新聞販売店などがそれぞれ趣向をこらして町の暮らしや文化、伝統のあり方を考える試みをされている。                       
町並み指数 40
参考文献
   大阪府の歴史散歩上  山川出版社  大阪府の歴史散歩編集委員会  1990年
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会
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